第六十

 ぽろろ、ぽろろ、ぽろろろろん。箜篌たてごとの音が響く。

 一夜明け、飽きずにまたもやってきた尚王の奏でる音に、皓月は耳を傾けていた。

 こうしている場合ではないのだが。どうも、昨晩の記憶が曖昧だ。

 

 老婆の幽鬼が現れ、その目と舌とを抜いたのが浩帝かと尋ねた後あたりからが良く覚えていない。なぜ、そんなことを思いついたのかも。


 昨夜、老婆が蹲っていた辺りに出来ていた血だまりは、老婆の姿とともに綺麗に消えていた。


 あれは、夢だったのだろうか。それにしては妙に現実感があった。


「尚王殿下。お伺いしたいことがございます」

「んっ? なんでしょう嫂子義姉上。私がお答えできるものでしたら」

「ここに、目と舌を抜かれた老婆がいたことはございませんか」


 ――バツッ。直後、鋭い音を立てて箜篌の弦が切れた。


「……目と舌のない老婆……ですか? 一体、誰からその話を?」


 水晶を思わせる、薄蒼の瞳を瞬かせて尚王は皓月を見返した。常に飄々とした尚王には珍しい様子に、皓月は首を傾げる。


「何かご存知なのですね?」


 しまった、と尚王が視線を逸らす。取り繕うように箜篌を弄ったり、目を彷徨わせたりしていたが、やがて、訴えるような皓月の視線に、負けた、と重たげな口を開いた。


「……その老婆は、亡き皇后殿下が皇太子殿下をお産みになったときの産婆かと」

「皇后殿下の産婆?」


 それが何故、目と舌を抜かれたのか。


「決して漏らしてはならぬ、そう厳命されたことを、欲に駆られ、ある士族に漏らしてしまったのです。それ故、皇帝陛下が厳しく罰したのだとか」


“――不要のものを見、不要の口をきく舌など――”


 昨日、雷のように脳裏を打った、あの声がまた、耳朶の奧に蘇る。


「……その秘密とは、亡き皇后殿下に関するもの……?」

「これ以上は、嫂子。どうか追及なさらないで下さい。ただ言えるのは、秘密が漏れたが為、少なくはない数の命が失われたということ。故に皇后殿下の話題は、皇宮では禁句なのです。余人の前では、口になさることはお控え下さい。皇上の逆鱗に触れることのなきよう。この世において、皇上の前で皇后殿下の話題を出して許されるのは、恐らく――皇太子殿下、ただお一人のみ。対立派閥の筆頭たる周貴妃を母に持つ私が口にしたことが知れれば、命すら危ういのです」


 声を潜め、口早に言う尚王からは、常の飄然とした雰囲気が掻き消えていた。確かに、謎めいた皇太子同様、亡き皇后についても謎は多かった。だが、それは皇后の座に着いていた時期が非常に短かったということと、低い身分の生まれ故だろうと踏んでいたのだ。

 口に出すことすら憚られる程とは。余程の事があったのだろう。皓月は頷いて、口を閉ざした。

 ぴゅうと吹き付けた風の声が、あの老婆の呻き声に聞こえた。



 その夜。またも聞こえ始めた呻き声にうんざりして、皓月は牀の上で寝返りを打った。


『うっうっうっうううううう――――』


 変わった事といえば、隅に居た筈の産婆の幽鬼が、何故か皓月の牀の横に移動してきたことだろうか。

 ぽたぽたとまた、血の涙を流しながら呻いている。が、どうしようもない皓月は、構わず、背を向けた。

 しかし、背を向けると却って、声が大きくなったような気がする。


『ううっ、ううっ。ううっ、ううっ……』


 構え、ということか。勘弁して欲しい。幽鬼を見たのも今回が初めてなのである。神たる白虎であれば話は別だが、巫術の心得もない皓月にはどうしてやる事も出来ないのだ。


「そなた、亡き皇后殿下の産婆だったそうだな」


 溜息を吐き、向き直って言うと、声がピタリと止む。どうやら、皓月の声や言葉は認識しているらしい。


「なぜここに留まる? 何をわたくしに訴えたいのだ。皇帝への恨み言か? 同情が欲しいのか? 漏らしてはならぬと厳命されたことを漏らしてしまったのならば、それはそなたの自業自得。――疾く去ね。そなたに付き合ってなどいられるものか」


 目と舌とを抜いてしまったという皇帝のやり方は、苛烈ではあった。だが、この産婆が秘密を漏らしたが為に、失われた命があったのだ。産婆には産婆の、やむにやまれぬ事情があったのかも知れない。だが、そのことと、己の行為がもたらした結果への責任を負うこととは別の話である。


 言い放つと、老婆は剥き出した歯を、ギリギリと軋ませた。

 が、直後、その姿は掻き消えてしまった。




 異変を感じて目を開いたのは、それから夜も更けた頃だったろうか。

 微かな煙と、焦げ臭いにおいがした。

 火事だ、と誰かの叫ぶ声が聞こえたと思えば、慌てて逃げていく音がした。それで、皓月は一気に覚醒した。


「――火事?」

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