第四十三
所狭しと置かれた書物は山の様に積まれているが、雑然とした感はなく、きちんと整えられている。室内の調度は重厚な印象で、几案の上の硯には墨がなみなみと黒光りし、書きかけの書状のようなものが置かれている。つい今まで、誰かが執務を行っていたような様子である。
だが、ひっそりと静まり返った室内には人の気配がない。
「……巫澂。これはどういうことですか。皇太子はどちらにいらっしゃるのです」
頭痛を覚えたらしく、額に片手を当てた巫澂は、やがて、諦めたように息を吐いた。
「――皇太子妃殿下に、これ以上は隠しおおせられませんね……」
「どういうことです」
「皇太子殿下は、現在こちらにいらっしゃいません」
「まさか……」
噂では、すでに亡くなっているという話もあった。それを察したのだろう、すぐに打ち消した。
「いえ。無論ご存命です。ただ、こちらにはいらっしゃいません」
「というと?」
「……ご病気で、離宮にいらっしゃいます」
「病気? ――それは、どのような。それを皇上はご存知なのですか」
「皇上も……ご存知です」
「それで、そのご病気は、治るものなのですか。一体、いつからなのです。まさか、ずっと、というわけではないのでしょう?」
引きこもりだというのも、病の為だというのなら合点はいくが――。
「体調の宜しい時には、こちらで過ごされておりますが。月に何日かは、離宮にて過ごされております」
「つまり、ある程度継続的にご体調が悪くなるということですか。なんという――」
浩帝は、この状況で、なお皇太子を皇太子の座に座らせ続けているというのか。
脆弱な人物がその地位にあれば、
それでも皇太子に据え続けるほど、皇帝に期待されているということか――と、目に僅かな影が差す。
「それで、巫官であるそなたが、何故そのことを知り、ここに出入りを?」
「皇太子殿下の乳母は、臣の母です。幼少より共に育ちましたので」
皇太子が病、という最大の秘密を明かしてしまったからなのか、或いは別の理由からなのか、巫澂はいつも通りの落ち着きを取り戻し、それからはすらすらと淀みなく答える。皇太子の装束を纏っているのは、その不在を悟らせないための
「では、ご政務は……」
「普段は皇太子殿下が勿論決裁なさっていらっしゃいます。ご体調が優れない間、皇太子宮にいらっしゃるのは危険ですから……」
「……普段は?」
確かめるように尋ねた皓月に、巫澂が言葉を濁す。その先に続く言葉を察した皓月は、絶句して天井を仰いだ。明かされた事の重大さ。――想像以上である。
発覚すれば、とんでもないことになる。反皇太子派の者が知れば黙ってなどいないだろう。
「皇太子妃殿下、このことはどうか……」
巫澂が案じている所を察して、皓月はひとまず頷いた。皇太子の体調など、機密性の高い情報だということは承知している。
「ええ。このことはわたくしの胸の
少なくとも、今は。と、そこだけは心の中で付け足す。
今、この状況下で皇太子の体調不良やら不在やらが発覚したところで、皓月の利になるようなことはない。
婚姻解消の理由位にはなろうが。今すぐそうする理由もない。
この婚姻は同盟の為のもの。
婚姻を解消すれば、この同盟も立ち消えになるだろう。もしそうするのならば、時期は選ばねば。皓月が嫁いだこともあって今、母皇の眼は北を向いているらしい。その邪魔をしてはなるまい。
それに、皓月も、この事実をどう捉えるか、もう少し落ち着いて考えたい。
「――ですが、巫澂。そなたの願いを聞き入れるのならば、わたくしの願いも聞き入れてくれますね?」
極上の笑みを浮かべて、皓月は言った。
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