第四十二
ひんやりとした風が、肩を撫でていくのが心地良い。
皓月の白い頬を、落ちかかる星の光が静かに濡らしている。暗いはずである。
今日は新月だ。
清かな光を受けて、その髪は淡雪のような光を放つ。ざっ、と踏みしめる地面が、なんだか頼りない。
皇太子としての皓月には、威厳と強さが求められた。国の頂点に立つべく、何者にも侮られぬ強さが。
だが、ここでは違う。
これまでの自分は、必要とされない。そう思えば、戸惑わない筈が無い。怒りが湧かない訳がない。これまでの皓月の努力が、生き方が、全て否定されたのだから。
輿入れが決まってから、ずっと心にある、虚無感。
“皦玲”として、“皦玲”らしく振る舞おうとすればする程。皦玲だったらどう答え、どう考えるか。考えれば考える程。
その度、“皓月”がなくなっていくような気がしたのだ。
『――佳い夜だ――』
思考の海に墜ちていきそうになっていた皓月の内側で、身じろぐ気配がしたかと思うと、ぽつり、そんな声が頭に響く。
「――ああ、そうだな。
己の白虎の声に、くすりと笑って頷く。そうだ、一人ではなかった。それが今、無性に嬉しいと思う。
ぽちゃり、と水の音が不意に響いた。吸い寄せられるように、目は池の、そしてその奧の、玉鱗閣の方へと走る。一瞬、黒い人影が中へ入っていったのが見えた。
皇太子だろうか。
思うと同時に、足はそちらへ向かっていた。
このとき、皓月には、特別の算段があった訳ではない。皇太子と会って、どうすべきか。どのように動くか。そんなことは、これまでに散々考えていた。だが、このときには、意識の外に追いやられていた。
慎重に。けれども逸る心に自然、足は速まる。
まるで、今、この時、この瞬間を逃すまいとでも言うように――。
驚くべきことに、玉鱗閣に続く廊には人気がなかった。
無論、扉にも人は居ない。扉は、内から鎖されていたが、皓月が忍び込むにはなんてことなかった。
あれだけ優秀な間諜である慎をして、「近づけない」と言わしめた皇太子宮の一角。それなのに、皓月は今、逸る気持ちのままに突き進んでいた。
蜜蝋の穏やかな香りに混ざる、辟邪香の香りは、巫澂のものと同じ。
森林を思わせる、穏やかかつ爽やかな乳香に近い香りを主に、少し柑橘系の香りも感じるのが、巫官達が通常よく用いる辟邪香だ。
だが、ここに漂っている香は、さらに澄明な水を思わせる透明感が余韻のように響き、そして、その最後に、煙のように幽かに木蘭の香りが残る。
皓月でなければ気付かない、ほんの僅か。
木蘭は、高貴な紫色の花をつけるが故、許されなければ植えることも出来ない特別な樹木。故に、浩では皇帝の寵愛の象徴とされてきたと、巫澂から渡された本にあった。確か、皇太子宮の庭園にも植えられていた。
香りを辿っていくと、一室に辿り着いた。蝋燭を灯した壇の前に、跪いている背が見えた。壇には位牌が三つ並んでいる。が、距離がある上に暗いため、書かれている文字までは見えない。
足音を立てず、気配も消し、皓月は一心に何かを祈っているかのようなその背に近づいた。
「皇太子殿下」
十分に近づいて、相手が逃げられないであろう距離まで詰めてから、皓月は漸く声を掛けた。
その背が、大きく揺れた。
「――な、なぜ……」
驚きの余りに漏れたと思しき声。
「……? その声、巫澂ですか?」
この時期、暗闇の中だというのに袖の無い
「……なぜ……なぜここに……」
また同じ言葉を繰り返して絶句している彼は、もしかしなくても、相当動揺しているらしかった。
だからであろうか。普段と何か違う様な気がするのは。だが、今はそれを気にしている場合ではない。
常の落ち着きが嘘のようにはっきり狼狽えている巫澂に、皓月は却って冷静になった。
「巫澂こそ、なぜ、斯様な時間に、一人で斯様なところに?」
正直言って、巫澂がここに居るのも不思議ではあったが、度々皇太子の用で殿内に出入りしている彼がここにいることよりも、皓月がここにいることのほうが不思議に決まっている。
だが、巫澂が焦っているのを良い事に、皓月はそのまま追及を続ける。
冷静にさせてはいけない。
「その衣は皇太子殿下のものだと認識していますが、何故そなたがそれを纏っているのです? 巫澂。納得のいく説明をしてください」
「こ、皇太子殿下に、急な呼び出しを受けまして」
「そうだったのですね。こんな深夜まで、ご苦労さまです。で、その衣はどういうことなのです」
「……これは……」
「もう御用は終わったのですか?」
言葉を必死で探している風の巫澂に畳みかける。
「は、はい」
「ではお戻りください。わたくしは皇太子殿下に御用がございますから。巫澂が今ここにいらっしゃるということは、皇太子殿下もまだお休みにはなってはいらっしゃらないのでしょう?」
言うや否や、くるりと巫澂に背を向けて皓月は引き返した。
「あ、い、いえ! 殿下はもうお休みです!!」
皇太子妃殿下、と焦ったような声がこぼれ落ちたかと思えば、腕を掴まれた。かと思えば、慌てた様にぱっと離すので、皓月は気にせず突き進んだ。
「皇太子妃殿下、どうかお止まりください」
巫澂が追いすがる声が聞こえるが、最早そんなことで止まる皓月ではない。
一段豪華な扉が目の前に現れて、試しに触れると、ぴりっと腕を何かが駆け巡って行くような感覚がして、弾かれた。
「その扉は、青龍の封じの術がかかっているのです。許可された者以外、通過できません。ですから――」
そうですか、とにっこり笑って皓月はそれを遮る。
「巫澂。お忘れかも知れませんが、わたくしとて、颱の皇女。この身には白虎の守護を抱いているのですよ。金気と木気が同等ならば、――理では“金剋木”。利はこちらにあります」
金緑の双眸で巫澂を射貫く。金緑の瞳が、一層強く金色に煌めいて、巫澂は息を呑んだ。
「そして、扉とは――開かれる為にあるのです」
瞬間、抵抗する力の流れのようなものを感じた。が、構わずに一層の力を注ぐ。
バチっ、と鋭い音がして、扉が壊れた。と、先程よりも少し濃い、辟邪香の香りが中から漂ってくる。
「夜分畏れ入ります、皇太子殿下。御前に罷り越しましたわ」
暗い室内へと、躊躇無く入っていく。
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