第七十一

 直後、視界に、藍が広がった。

 みしり、と骨の軋む音。だが、予想した衝撃は来ない。


「――お怪我はありませんか?」


 声は、あくまでも柔らかに響いた。


 今度は、皓月が目に驚愕を浮かべる番だった。

 青龍と皓月の間に入った皇太子の背に、青龍の尾の、棘状に尖った部分が突き刺さっていた。


「――皇太子殿下!」


 それを引き抜いた尾の先から、真紅の血が滴り落ちる。

 傷の確認をしようとした皓月の肩を押しとどめ、軽く身をかがめた皇太子は、軽く咳き込んでから、唇を開く。


「……大丈夫です」

「――何が、……何が大丈夫ですか!? 警戒心の強い割に、無謀な――」


 言葉は、最後まで続かなかった。鋭く目を細めた彼が、皓月が反論する間もなく、抱えて高く跳躍したからだった。

 再度攻撃を仕掛けてきた青龍の尾が、たった今、二人が立っていた地面を抉る。


「本当に大丈夫です。――、治りますから」


 なおも物言いたげな目で見上げた皓月に、着地した皇太子が柔らかく微笑みながら言う。直後、様々な感情が一気に去来した皓月は、却って言葉を失った。


「――わ、分かりました!! わたくしも、もう大丈夫ですから!! 下ろしてください!!」


 が、程なくして我に返り、落ち着き無く腕の中で身を動かす皓月に、皇太子は「はい」と頷き、危なげの無い動作で下ろした。


「お二人とも、大丈夫ですか~?」


 居たたまれず、槍を持ったまま視線を彷徨わせる皓月の耳に、緊迫感を台無しにする間延びした声が響く。確認する迄もなく、尚王である。


「――だ、大丈夫ですっ」


 応えて皓月が、皇太子からずざっと距離を取る。その様子を、箜篌を抱えた尚王・水遜が面白そうなものを見る目付きで見ていた。が、直ぐにまた窈王の青龍に目を転じる。


 唸る青龍は、直接攻撃をするのをやめたらしく、こちらを窺っている。と、風を切る音がして、皓月は体を捻った。横から木の枝が伸びて突き刺してきたのだ。槍で軌道を逸らせ、捌く。皇太子は剣で応戦し、尚王は、箜篌を抱えて、鞭のように撓る枝葉をひょいひょいと身軽に回避し続けている。攻撃は次第に激しさを増し、いつしか全方位から攻撃が飛んでくる。


「ああもう、キリがないですねえ。箜篌に傷が付いちゃうじゃないですか」


 尚王が、うんざりしたように呟いた。


「――推恩、右だ」

「え? 痛ったっ!! ――わああああああっ、危なっ!!」


 皇太子の注意で、間一髪で避けた尚王だったが、少しばかり間に合わなかったらしく、棘の付いた蔓が、額をかすった。


「回避ばかりでは、対処しきれない」

「ちょっとくらい、かわいい弟に手を貸してくださっても良いじゃないですか~」

「……かわいい?」


 青龍に目を向けたまま、皇太子は尚王の言葉を繰り返した。


「……冗談を言う余裕はあるようだが」

「――はいはいっ。分かりましたよぅっ!!」


 言って、箜篌の弦から手を離すと、懐から扇を取り出し、向かってきた蔓や枝を一気に薙ぎ払う。すると、地面ごと抉れて派手に吹き飛んだ。


「あ? 力加減間違えたかな。やっぱりこれだと」

「鍛錬不足だろう」

「兄上……手厳しい……」


 そんなことを言いつつも、先程枝がかすった額から目元を通り、頬へと血がだらだらと流れ続けている。

 余裕そうに振る舞ってはいるが、頬は血の気が引いて青白く、呼吸の乱れが思いの外大きい。毒の影響であろう。


 次から次へと無限に繰り返される攻防。こちらの消耗を待っている風の青龍に、決定打を、与えも、与えられもしない内に、時間は過ぎていく。本体を叩くしかないのだが、当然、それを見越している青龍の攻撃で近づくこともできない。


 剣で青龍が操る枝を避けていた皇太子がふと、新たに伸びてきた一枝を睨んだ。直後、月虹の瞳が、仄青い光を帯びた。すると、その木の根が、忽ち畏れをなしたように地面へと伏せた。


「……そろそろ、か」


 感覚を確かめるように彼は手を動かし、剣を握り直した。


「灑泠! 早く――」


 事態の膠着を察した窈王が、やきもきとした声を発する。


「――時間切れだ、愚弟!」


 その頭上に、また別の青龍が顕現した。窈王の青龍に噛みつき、激しくもつれ合う。だが、すでに片腕を斬り落とされ、満身に創痍した年若い龍が、完全体の青龍に敵うべくもない。

 ぎり……と、窈王が悔しげに唇を噛む。その喉元に、皇太子の剣が突きつけられる。


「これ以上は、無駄だろう」


 尚王の青龍に押さえつけられた窈王の青龍が、威嚇するように皇太子を睨む。が、手出し出来ないと見て、無念そうに項垂れた。


「……殿下……」


 いつの間にか傍にやってきて、窈王の手を取った窈王妃が、彼の様子を窺う。既に戦意喪失した様子の窈王だったが、皇太子はなお油断なく剣を突きつけている。

 皓月は己の白虎を呼び、風で以て周囲の霧を払ってもらう。


「は、……母上、私は……」


 縋るように、母を呼ぶ。


「……水遼……」


 尚王に揺り起こされた周貴妃は、いくぶん意識を朦朧とさせながらも、窈王の姿を認めると、はっきりと眉を寄せた。


「…………よくも、よくも…………これだけのことを……愚か者が……、そなたなど知りません。疾く、行っておしまい」


 鋭くその唇をついて出たのは、明確な拒絶。


「……母上……私は、ただ……」


 迷い子のような窈王は、自身の妃へと首を巡らせた。


「……玿兮、……僕は……ただ……」


 母上に、愛して欲しかっただけなんだ。兄上と同じように。


 その、声にならぬ言葉を、はっきりと理解していた窈王妃は、ゆっくり頷いた。

 彼女は、なおもしっとりと微笑んでいた。


「分かっておりますわ。殿下」


 彼女こそ、彼にとっての慈母であるかのような、そんな、笑みを。


「お可哀想な窈王殿下。実のお母様も、父皇上も、兄君たちも……どなたも、あなたを必要していらっしゃいません。――でも大丈夫。わたくしがずっと、ずうっと一緒ですわ」


 甘い毒を含んだ声で微笑む窈王妃は、心から幸せそうな表情で。

 目覚めた尚王妃も、すでに拘束されていた恭王妃も、目元に怒りを宿したままの周貴妃も、彼女を見ていた。

 その、三者三様の眼差しと表情が語っていたのは何だっただろう。



「さあ、貴妃様。貴女もここまでです」


 窈王と窈王妃とが拘束されるのを確認して、尚王が言った。なおも額から血を流しながら、周貴妃を促す。先に止血ぐらいした方が良さそうだ。が、周貴妃は「黙れ!」と振り払う。


「この、この――不孝者が……!!」

「では、伺いますが、貴妃様は、私や窈王のことを、我が子と思ったことがあるのですか?」


 いかなる感情の色も映さぬ、水晶玉の様な薄蒼の瞳を見上げた貴妃の目元が、ひくりと動く。


「周貴妃。皇太子妃の輿入れを阻まんと、道々、数々の妨害を働いたな」


 黙した周貴妃へと皇太子が告げるのを聞いて、「え?」と皓月は首を傾げた。


 尚王が、「全て皇太子殿下が阻止なさいましたがねえ~」と、茶化すように呟いたので、更に驚く。


 輿入れの一行は、豪勢な用意をしていたから、賊などに狙われる可能性が高い。故に用心はしていた。

 その割に、道中、拍子抜けするほど滞りなく進んだのは、そういう訳だったのか。

 颱から浩への道中、(皓月が何かやらかすことを警戒した)侍官や、護衛達に守りを固められ、厳重に車の中へ押し込められていた皓月には与り知らぬところであった。


「此度の颱と浩とで結んだ婚姻は、皇上の御意向。それを阻もうとは、皇上への叛意有りと見做されても致し方ないと言えよう」

「お黙り! あの女と同じ、忌々しい呪い持ちが! そなたのような者が、浩の皇太子の座にいることがそもそもの誤りよ――」


 叫ぶように言い放った周貴妃を、皇太子が厳しい目で見下ろす。

 彼が黙り込んだのを良い事に、周貴妃は更なる衝撃を彼に与えようと言葉を連ねる。


「あの老婆の言う通り、呪われたその身ゆえ、ろくに臣下達の前に姿も見せられぬ半端者が……! 一体、浩人の誰が、そなたの、その姿で、浩の皇太子と認めよう。わたくしはただ、それを正そうとしたまで!」

「――ならば、その誤りを正すために、我が母后をも弑したと?」


 皇太子の声は、あくまで落ち着いていた。が、目ばかりは、いよいよ鋭く、相手を射貫かんばかりだった。


「――ええ、ええ!! その通りよ! 全てはあの女のせい!」


 対する貴妃の目に映る憎悪も、彼に劣らず激しい。


「生まれてすぐ、離宮へと追いやられたお前は知らないでしょう。あの女が後宮に入ってから、凄惨な事件が相次いだこと。宮中が混乱したこと。――どれだけの者が、恐怖に怯えたか。忌々しい、銀色のあの女が――っ」


 そこで、貴妃の言葉が止まった。


 信じられないものを見た目が、皇太子を飛び越え、その背後の、一点に縫い止められた。

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