紀第二 豈に図らんや

第五

※本話は、皓月が嫁いで来る少し前のお話です。

――――――――――――


「皇太子殿下が、たいの王女と?」


 皇太子と颱の王女との婚姻が発表されたその日、浩の宮廷もまた、颱のそれに劣らず、大騒ぎだった。朝廷は勿論、後宮や各王府でもその話で持ちきりだった。


 西の大国・颱。女人が統治するその国を、浩の人間は礼節をわきまえぬ淫奔で野蛮な国だと認識している。颱の女王は夫を持たず、女王の子といえども男子には御位を継ぐ権利を与えない。


 男尊女卑の考えが色濃い浩では到底受け入れられない話だ。


 無論、その反発の根底には、文化や制度、風習の違い以上に、両国の積年にわたる攻防で生じた深い怨恨がある。その凄まじい怨念の前には、道理など全て無意味な程に。

 下手をすれば内乱すら起こりかねない。


「――あの“颱の猛虎姫”とかいう、恐ろしい名で呼ばれている?」

「私は“抜山虎女ばつざんこじょ”とも伺いましたわ」

「抜山……山をも動かすなど……なんと恐ろしい……」

「それは王太女の第一王女でしょう。まさか世子およつぎを他国に嫁がせる訳がないわ。第二王女でしょう」


 颱の女王には、二女がある。

 

 この度、浩国の皇太子との婚姻を結ぶことになった第二王女の皦玲きょうれいは、颱の王族に特有の、白銀の髪に神秘的な金緑の瞳を持ち“天賜星娥てんしせいが”と称えられる奇跡のような美貌の姫君として評判だった。


 彼女を妻に得たいと思う男は、国の内外を問わず、大勢居た。

 だが、そんな男達の前に決まって立ち塞がるのが、第一王女にして世子の皓月こうげつだった。


 彼女は、別な意味で、皦玲以上に有名だった。


 “颱の猛虎姫”“抜山虎女”或いは“騎虎姫将きこきしょう”。

 様々に呼ばれる彼女の逸話は数知れない。

 

 試みに、颱国の一村に出向き、話題を振れば、誰もが嬉々としてそれを語るだろう。

 

 曰く、生まれてすぐ、誘拐されて籠ごと河に流されたが、木に引っかかって無傷で発見された。

 曰く、二歳にして、皇帝がうっかり橋から崖下に落としてしまったが、白虎の守護を得て、無事に生還した。

 曰く、十歳にして、人々を震撼させていた山賊を一網打尽にし、彼らを更正させて自分の配下として使っている。

 曰く、十二の時、視察で属国の騎馬民族集落を訪れたとき、一番の乗り手と勝負をして勝ち、名馬五十頭を贈られた。

 曰く、十五の時、氾濫を繰り返す況河の治水を任され、新たな技術を導入して成功させた。

 曰く、十六の時、反逆を企てたの軍を蹴散らし、転じて維王の首を取って颱の領土を広げた。


「熊と格闘していたこともあるそうですわよ」

「わたくしは、三十丈(およそ九十メートル)を超える崖を駆け上ったとうかががいましたわ」


 その他、槍一本で狼の群に突っ込んでいっただの、河の対岸から対岸まで一足で跳び越えただの。彼女達の口からは次々に姉王女の噂話が溢れた。だが、これらは彼の王女の話として語られるもののごくごく一部に過ぎない。

 

「俄にはとても信じがたい話ばかりですわね。恐らく誇張でしょう。治水を成功させるなど、古の聖王が長年に渡って心血を注いだ偉業ではありませんか」

「現在の颱の女王も、即位前には“猛虎姫”と呼ばれていたそうですわ。二人分の話が混同されて伝わっているのではありませんか」

「真偽のほどはともかく、そんな話が颱の津々浦々まで浸透しているからには、その虎女はそれだけ民に愛されているということ。浩にとっては、大きな脅威でございましょう」

「まあまあ、皆様。今回いらっしゃるのはその方ではないのですから」

「いいえ、大いに関係がございますわ。猛虎姫は妹姫を溺愛していらっしゃるとか。何かあれば乗り込んでくるのではありませんか?」


 まあ、そんな。

 驚いた様な、侮るような、様々な思いを含んだ声が上がる。


 姉の行状の派手さ故か、皦玲については外から分かる情報以上のことは知られていなかった。果たして、“猛虎姫”と畏れられる姉を持つ妹姫は、どんな人物なのか――。


「されど、そうなれば、皇太子殿下は颱という強力な後ろ盾を得る事になりますわね」

「そう順調に進むでしょうか? いつ寝首をかかれるか分からない妃を。小虎でも、獣は獣ですもの」

「少なくとも、がたは黙ってはいらっしゃらないでしょう」

「どうかすると、後宮の勢力図が塗り変わるやも……」

「まさか、所詮異国の王女一人、何ができましょう」

「――そなたたち、何を話している?」


 冷ややかな声に、宮女達は口を噤んだ。厳しげな表情を浮かべて咎めたのは、皇太子宮の女官である。


「何でもございませんわ」

「余計な言葉は慎むのが身のためと心得よ」

「心得ましてございます」


 さっさと行け、と手を払われて、噂話に興じていた宮女達は足早に立ち去った。


「――すましちゃって、何よ。皇宮仕えになれなかった“点白女官てんぱくにょかん”が」


 そんな声が聞こえたか否か、足早に後宮へと戻ってゆく彼女達の背を一瞥して、その女官は小さく息を吐いた。


   * * *


 因縁のある颱の皇女と自国の皇太子の婚姻に、上を下への大騒ぎの浩の皇宮の片隅で、その報せを聴いている少年がいた。下働きの者であることを表す簡素な上下を纏う彼は、壁に作った的に向けて暗器を投げつけていた。


「颱の皇女が、ですか?」

「然り。そなたの宿願を果たす時が来たということだ」


 少年の傍らには、男が一人、玉を垂らした冠で顔面を覆っている。

 その玉で顔が見づらい上、肌に施した朱の紋様のため、男の表情は窺えない。が、いつものことだったので少年は気にしなかった。


 皇宮中、どこでも見かける巫官など、皆この格好だ。男が本当に巫官かどうかは、少年の知るところではない。


「皇女は春にこちらへやってくる故、それまでに更に腕を磨くことだ。――望みを叶えたいのなら、他の者に、先を越されぬよう」


 ダンッ。音を立てて、的が真っ二つに割れた。


「……分かりました」

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