第五十三
* * *
恭王・
彼の頭に思い浮かぶのは、先日御苑で出逢った、皇太子妃の事ばかりである。
あの日は極秘の視察の帰りだった。恭の地で起きた問題の実態を調べるため、青龍の守護の力を使い、水の道――玄武の道とも、龍の道とも言われる――を使って移動をしてきたのだ。御苑の池は、ちょうどその道の出入り口になっている。皇族しか入れないため、ひっそりと移動したいときによく用いられるのだった。そこから出たところで、気配を感じた。
見上げた水逾の目に、白銀の髪を翻し、白い衣を棚引かせ、披帛に風を孕ませ、天から降ってきたその人は、まさしく仙境に住まう仙子もかくやと見えた。“天賜星娥”の美称も
その髪に挿した、天仙の愛したという仙紫客が目に入れば、水逾は、無意識のうちに「――花仙……?」と呟いていた。それ程までに、その姿は、脱俗的で超然とした美しさを放っていたのだった。
どうも前後の記憶があやふやなのも、あまりの衝撃に我を失ってしまったからだろう。そのすぐあとに出くわしたはずの、異母兄の尚王と交わした言葉も、よく覚えていない。
兎に角、あれ以来、皇太子妃の気品に溢れ、ある種の畏れをも抱かせる程の清雅な美しさが目に、脳裏に、焼き付いて離れないのだった。そんな水逾の様子に、王妃は気付いているのだろう。だがそれも、どうでもいいことである。
「――ねえ、この間の皇太子妃殿下の品茗会、貴女ついて行ったでしょう? 実のところ、どうだったの? 噂になっているじゃない」
どうやら水逾がいることには気付いていないらしい。通りかかった官女達のおしゃべりに混ざる“皇太子妃”という言葉を拾い上げて、水逾は無意識に耳を澄ませた。
「あれは――もう見たこともないくらい、本当に素晴らしかったわ。まさしく仙界に紛れ込んだような素晴らしい設えで、皇太子妃殿下も、お側の方々も本当にお美しくて――夢の中にいるようだったわ」
その時の余韻に浸るような声音で、一人の官女が言う。
「颱って、あちらは女帝を筆頭に、女人が中心の社会でしょう。その中で磨かれるものもあるのよねえ。ほら、――女同士の目って、厳しいじゃない?」
「――ああ、確かにねえ」
「それも、女官はみんな玉簪と玉釧、宮女ですら玉簪を付けていたのよ。信じられる? あれは色合いとか艶からして、絶対、颱産の上白玉よ。皇太子妃殿下の下賜品に違いないわ。うらやましいわよねえ」
「それといえば。――周貴妃様と王恵妃様のお話も聴いた?」
「どんな話?」
「女官や宮女は、妃嬪や公主の方々と区別するため、玉花の類いを身に着けてはならない、っていうのがあるじゃない。それで、周貴妃様が皇太子妃殿下を注意したらしんだけど……」
「ああ~やっぱり。そういうことしそうよねえ。あの御方なら……。それで? どうなったの?」
「詳しいことはよく分からないけれど、はっきりと反論したらしいわ。それで、お二人とも面目を失って真っ青。怒り狂った周貴妃が、その話を知らせた恵妃様を散々に罰したらしいわよ」
「あんなに儚げな御方が、お二人ともやり込めてしまったなんて……なんで貴女、そんな話、知ってるの?」
「――人の口に戸は立てられないということよ。あの方たちに酷い目に遭わされたのなんて、それこそ星の数ほどいるじゃない」
「いい気味よねえ」
「シッ。大きい声で言わないの」
「――皇太子妃殿下は、美しいだけではなく、聡明で、
「東宮に配属されれば良かったって思ってる?」
「貴女こそ」
きゃははは、と屈託の無い笑い声が上がる。
「――そなた達、何を話しているの?」
冷たげな声に、官女達の慌てたような悲鳴が聞こえた。水逾もまた、我に返る。
恐ろしく機嫌の悪そうな声は、王妃のものだった。余程腹に据えかねているのか、あそこまで怒りを露わにするのは、王妃には珍しい事だった。
「お、お許し下さい王妃様」
「――何を話していたのかと訊いているのよ」
濡れたような黒い瞳が重苦しい、陰鬱な雰囲気を感じさせて、見ているだけで気が滅入るのだった。忌々しい周貴妃に押しつけられた嫁、という印象が何よりも悪い。周貴妃や王恵妃には、それこそ水逾は、昔から母とともに辛酸を嘗めさせられてきた。その二人が、皇太子妃によってやり込められたという。そんな話を耳にするにつけ、また水逾の中で、皇太子妃に対する好感は募る。――あれほど焦がれた筈の、尚王妃・翠羽の事が、全く思考に上って来ないほどに。
あの飄々とした尚王もまた、皇太子妃に随分と執心で、図々しくも、毎日のように東宮に通い詰めているという。琴を聴かせて欲しいとせがんでいるらしい。尚王のその厚顔を、忌々しくも、うらやましくもある。だが、貞節な皇太子妃は、毎回断っているという。皇太子に遠慮しているのだろう。あんな引きこもり相手に、とも、もし自分だったなら、とも、あり得ない可能性を思い浮かべては、水逾の心は千々に乱れた。
一方で、水逾は懸念もした。己に恥をかかせた皇太子妃を、果たしてあの毒蛇のような周貴妃が放っておくだろうか、と。その一方で、もしそれを助けたら、感謝した皇太子妃は、ほんの僅かでも自分を見てくれるだろうか、などと、埒もないことを考えては、また一層の迷いへと落ちていくのだった。
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