第五十四
「大変な話題ですね。正直驚きました。あの方々を相手に、あそこまでなさるとは……」
茶杯から立ち上る湯気の向こうから、巫澂が言った。例の如くの講義である。
効果が予想以上に大きくて驚いたのは皓月もである。
街に降りた日以来、講義の終わりに、皓月が淹れた茶を振る舞うのが恒例になりつつあった。その上、巫澂を相手に、猫を被ることもしなくなった。それは、東宮の他の者達に対しても。
驚かれるだろうとは思った。
しかし、皇太子から東宮の内政をあずかった皇太子妃が、皇太子妃としての自覚を持ち、東宮を守る決意を固めたために毅然とした態度を取るようになったのであろうと、好意的に受け止められたようであった。
年若い皇太子妃に、周貴妃と王恵妃がやり込められたという話は、恐ろしい勢いで広がった。皓月自身は、雨霄の件以外、大した害は受けていなかったが、余程周囲から恨みを買っていたらしい。
此度の一件、皇宮の尚食局に申請した、東宮で消費される食糧の内、颱出身者分だけが、ごっそり引かれていたという話だった。それを、宮女や女官の消費分をなんとかやりくりしていたそうだが、ごく一部で、玉泉宮の情報を流す事によって、自分用の食糧だけはちゃっかり確保していた、などという者もいたらしい。
不正を働いた者には厳重に注意を与え、逆に誠実に務めた者には褒美を与えた。
そうやって、賞罰を明らかにしたことで、彼らのやる気にも火がついたようだった。元より東宮の者達は、多くが働き者ばかりである。火の消えていた東宮に、静かながらも確かな活気が宿ったことを、誰もが感じていた。
「確かに、このまま黙ってはいないでしょう。――先日、尚食が何者かに毒殺されたとか」
大方、恵妃あたりだろう。全てのきっかけは、尚食が東宮女官長と揉めたことだったのだから。
「私もそれを危惧しております。どうか、くれぐれもお気を付けください」
「勿論です――ですが、わたくしには白虎の守護もございます故。ご心配なく」
「それでも、どうにもならぬことも、人の世では起こり得ます。皇太子殿下も、憂慮なさる所です」
「そうですか? ――それはそうと。その後、皇太子殿下のご容態はいかがですか」
「落ち着いていらっしゃいます」
「それは宜しゅうございました。でしたら、そろそろお出ましになっても宜しいのではございませんか?」
「それは……皇太子殿下の御心次第……、でしょうね」
「――そうですか」
ふ、と微笑んで、それ以上は追及しないことにする。
「こちらをお預かりしております。どうか、常にお持ち下さい」
取り出したのは、美しい錦の袋である。手に取ると、中は何か硬い物が入っているようだ。
「有事の際、中のものを取り出して示すようにと。――ただし、一度しか使えませんので、使う場面はよくお考えを」
「何が入っているのです?」
「……開ければ……すぐお分かりになるかと存じます。なれど、どうか使う時に御覧下さい」
「皇太子殿下も、巫澂も、どうも心配性のようですね。……わかりました」
苦笑して、皓月はそれを懐に収めたのだった。
ところが。一体、世の中というものは、良い予感というのはどうも当たらず、悪い予感というのはとかく当たるものである。或いは、巫官たる巫澂に、何かが告げた、予言だったのかもしれない。
それは――ある夜。閑かな夜だった。
夜毎に響く笛子の音が、その日はきこえてこなかった。新月の晩である。
思えば、前に笛子の音がきこえなかったのも、新月の夜だったと思い至る。あのときは、皇太子の体調が悪い、ということだったが。耳と心に馴染んだその音が聞こえないことに、些かの物足りなさを感じた皓月は、琴を取り出し、思いつくままに弾じた。
物々しい足音が玉泉宮に響き渡る。外で官女達の悲鳴や衛士の怒声がしたかと思うと、手に手に武器を引っ提げた兵達が入ってきた。
「……来た、か……」
手を止めもせず、皓月はただ、それだけを、口の中で呟いた。
* * *
嫋やかで儚げな皇女ならば、きっと震えて涙を浮かべていることだろう――そう予測しながら入ってきた者達は、皇太子妃の自若とした佇まいに、寧ろたじろいだ。
優雅に琴を弾じ、彼らを一顧だにしない。些かの恐れも怯えも無いその姿は、王者然とした気品と威厳すら、見る者に感じさせた。
「颱の皇女。――貴様も、今日こそおしまいだな」
勝ち誇ったように言うも、構わずに琴を弾じ続ける皇太子妃に、先頭の男――喬将軍・
が、彼女の雰囲気は小揺るぎもしない。
「皇太子妃殿下。ご足労願います」
将軍の声にも応じない皇太子妃に、別の官が再度促す。
直後。す、と長い銀の睫毛ごしに、金緑の瞳が男達を静かに射貫いた。その目に濃く、強く揺らめく金色の煌めきを目にした瞬間、貫一は、ぶわ、と総毛立った。
「――……」
こんな頼りない、ほっそりとした肩の女に。ただ一人座す、丸腰の相手に。多くの部下を従え、武器を携えて立つ貫一が、圧倒されたのである。――ただの一瞥で。
その瞬間、彼は、まるで自分が、巨大な肉食獣の前に一人対峙させられたような気分にさせられた。
だが、それはあくまで、気のせいだ。実際、そこに居るのは、無防備なただ皇女一人きり。
一曲が終わって、漸く彼女は――皓月は、ゆったりと顔を上げた。
「喬貫一、――わたくしに何用か」
名を呼ばれ、貫一は、我に返る。そして、女相手に一瞬、完全に気を呑まれた己が恥ずかしくなり、それを紛らわすように、いかにも厳めしげな声を作った。
「颱の皇女・風皦玲。皇帝陛下の暗殺未遂により、拘束する」
「そう、」
皇太子妃は、ふっと笑った。
「暗殺未遂? 全くもって、心当たりはないけれども。……まあ、承知しました。どこへなりと連れて行くが宜しい」
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