紀第十四 見渡せば、前も後ろも敵ばかり

第五十二

「いやぁ~申し訳ございません、まこと、全てはこの不肖の息子の罪でございます。どうかお許しあれ」


 軽やかな笑い声を高く響かせ、思わぬ所から出てきた尚王に、皓月は目礼をした。


「これは、皇太子妃殿下。――貴妃様にお会いに?」

「ええ、お呼びと伺いまして」


 今は、品茗会の翌日の昼過ぎである。今朝方、周貴妃からの呼び出しがかかり、皓月はゆっくりと準備をして、周貴妃の宮殿に向かったのである。無論、ゆっくり、はわざとである。


「それはそれは。――折悪うございましたね。私の所為で、貴妃様は少々、気が立っておいでのようです」


 言いながら、その手は拍子を取るように、しおれた花を弄ぶ。


「……では、覚悟して参りましょう」


 それでは~と、鼻歌を歌いながら去って行く尚王を胡乱な目で見遣り、皓月は溜息を吐いた。



 周貴妃の宮に入ると、待ちかねたように女官達がやってきて、皓月を周貴妃の前へと連れてきた。


「――皇太子妃が、皇宮の秩序を蔑ろにし、綱紀を乱していると聞きました。一体、どういう事かしら」


 随分と耳が早いことである。尚王が言っていた通り、声音からも、かなり苛立っているのが分かる。


は一体、本宮わたくしの何を指して秩序を蔑ろにし、綱紀を乱していると仰るのか、判断いたしかねます。本宮は、浩法に定めるところに則って万事処理しております」


 敬称を敢えて付けずに答えると、周貴妃は苛立ちを募らせて肘掛けを叩いた。また、「本宮」とは、浩において妃嬪が、同輩かそれ以下の者の前で用いる自称である。自己を誇る意味合いが含まれるため、皦玲が用いる自称としては相応しくないと思い、敢えてこれまで使ってこなかったのである。


 周貴妃はびっしりと刺繍を凝らした濃い紫色も仰々しい衣を纏い、鳳冠を被って皓月を睥睨し、威儀を整え、こちらを怖じ気づかせようとしたつもりだろう。が、文字通り百戦錬磨の母皇の方が数万倍は迫力があるので、皓月にとっては、微風を頬に受けるようなものである。何のおそれも感じない。


 寧ろ、却って必死に虚勢を張っているように見えて、滑稽を通り越して、痛々しさすら感じる。

 その貴妃の横に座っているのは、王恵妃である。碌に調べもせず、片言だけで断じ、雨霄を罰するように命じた妃。いつも周貴妃にくっついていると聞いていたが、どうやら今日もまた来ていたらしい。好都合である。呼び出してもらう手間が省けた。


「女官や宮女にこれ見よがしに華美な衣服を着せ、玉簪や玉釧を身に着けさせていると聞きました。女官や宮女は、装身具を身に着けてはならないのが浩の後宮における律。知らぬとは言わせません」

「……後宮でそのように言われている、ということは無論、存じておりますが」

「後宮でそのように決められているのですから、当然東宮もそれに従うべきでしょう!」

「ではお伺いします。それは、一体、何という法や礼制度によって、規定されているのですか?」


 貴妃は、恵妃に目線を遣った。答えよという合図に、恵妃は慌てた様子で、傍の宦官を見遣った。


 憐れなのは、押しつけられた宦官である。


「……それは……」

「早く答えなさい。――まさか、答えられないとでも?」


 自分達を棚に上げて恵妃が急き立てる。その宦官はますます顔色を悪くした。白を通り越して、最早幽鬼の如き青である。皓月は、その宦官を気の毒に思った。答えたくとも、答えられるわけがないのである。


「先程も申しましたが、わたくしは全て、浩法に定める通りに処理しております」


 女官や宮女の装身具の装用を禁ず、というような規定はもとより浩法で明文化されていないのだ。

 正直に規定はないと言おうが、知らなくて答えられないと言おうが、どちらにせよ、主たちの機嫌を損ねることには変わりは無い。だから宦官は言いよどんだのであろう。故に、皓月が口を開いた。


「お二人とも、うっかりお忘れなのでしょう。――官女の服礼ふくらいは『浩典こうてん』巻第三百二十九及び三百三十に細かく定められております。まさか――浩国の御出身であり、長年を浩でお過ごしのお二方が、颱国出身のよそ者よりも自国の礼法に疎いなどという話はございますまい」


 邪気の無い笑みを浮かべ、言う。貴妃は無表情になり、恵妃はそんな周貴妃の様子を見てはっきりと分かるほどに顔色を変え、狼狽えた。


 皓月が浩に来た当初は、女官や宮女達の出で立ちを、随分と地味だな、と思ったものである。


 公主や妃嬪と区別するためというが、区別するというのなら、男性官吏の様にその位階や官職に応じて細かく規定すれば良いだけである。実際、宮女はこれ、女官はこれこれを身に着けるべし、という規定は古くから存在した。颱と浩とに大陸が分かれる前に存在した、こうの遺法に則って定められた礼法である。皓月が昨日披露した皇太子宮の官女達の衣裳は、全てその、伝統的な礼法に則ったもの。


 不用意に非難すれば、この二人のように、自分の無知を晒すことになる――それは、文化や礼を尊ぶ浩においては、痛恨の極みと言っても過言ではないほどの大失態なのだ。


「規律を乱したと仰るならば、――女官や宮女の衣服を粗雑なまま放置していることこそ乱れというもの。そのような状態の者を、国の中心たる皇宮や、東宮に置いておくことこそ、権威を貶めることであり、不敬と申せましょう」


 どこで捻じ曲げられたのか、可能性は色々考えられる。例えば、女官の衣服を整えるのにさく予算を削るため、とか。女官達が目立って妃嬪の立場を脅かさないため、などである。予算的なものは、時代によってはあったかもしれないが。


 皓月は何も、贅沢を奨励しようというのではない。皓月が重視したのは、宮中の女人の大多数を占める彼女達自身に、誇りと自覚とを持たせることである。


 人は、己を扱うように人から扱われる。


 雨霄の件を発端に、露わになったのは、浩の皇宮における女官や宮女達の扱いの軽さだった。


 元々父権の強い浩において、女人の扱いの軽さは、颱から嫁した皓月にとって、衝撃的だった。話で伝え聞いていた以上である。それでも、妃嬪はそれなりだったが、官女達の扱いは予想以上だ。


 俸給こそそれなりではある。女官を募集する布令を見れば、書に通暁し、健康な女人とあり、才能の有る人材を求めているということが窺える。されど、実際を見てみると、宮女と女官の違いは明確ではないし、職位が上がったところで、目に見える変化は殆ど無い。常に上の者の機嫌を窺うのにやたらと神経を使うし、内部のいじめや嫌がらせはあるし、その上、下手に上の者の機嫌を損ねれば、最悪命をも失い得る、相当に危険な環境だ。


 才能のある者なら、却って避けるだろう。

 すると、余程暮らしに困った者か、士族のお嬢様の、嫁入り前の箔付けとしか思ってなさそうな者しか集まらないだろう。それでは有用な人材は集まらない。目指すべき対象となっていないのである。これでは、宮女や、さらに選考の厳しい筈の女官になったからといって、それが、彼女達の誇りに繋がりようもない。




 瑞燿に出たあの日、巫澂に確認して欲しいと頼んだのは、東宮における皇太子妃としての皓月の権限の範囲についてであった。


 皇太子妃としての皓月が侮られていると、その下にいる者達も軽んじられる。これ以上、黙っているつもりも、その必要もないと気付いた皓月は、行動を起こすことにした。


 返答はすぐさま来た。

 ――曰く、「皇太子妃の権限として浩法に定める所の全て」。

 

 直筆と思しき悠然とした筆跡で書かれた簡素な文言に、唖然とした。異国出身の皇太子妃を相手に、権限を全面的に認めるとは。つくづく、何を考えているか分からない皇太子である。


「こちらも預かって参りました」


 書状を届けてくれた巫澂は、鉄製の板を連ねたものを取り出してきた。


「――これは?」

「昇龍宮の書房の鍵です。好きにお使いいただいて構わないそうです」

「……皇太子殿下は、わたくしが何をしようとしているか、ご存知ということですね」


 受け取った鍵の束を見下ろす。――試されているような気がする。


 なんだか癪だったが、皇太子妃宮の書房には皓月が必要とするものはなさそうだったし、書狂本の虫という皇太子の宮殿の蔵書を見られるというのはありがたい。だが、……どうにも引っかかるのも確かであった。


「――流石は乳兄弟ということでしょうか、巫澂」


 少しだけジトッとした目で言った皓月に、巫澂は口元に少し困ったように微笑みを浮かべたのだった。


 実際、行ってみた昇龍宮の蔵書は、想像以上であった。数も数だが、内容も素晴らしく、保存状態も良い。あまりにも数が多すぎて、本来なら居住区域であろう処にまで収蔵棚の列が食い込んでいたが。

 こちらは普段使わず、玉鱗殿の方を生活の場に使っているのかもしれない。

 まぁ、建物の構造上、小ぶりな分、少人数での護りを固めやすいというのもあろうが。


 建国期に浩が行った挙国の大事業、昊国の書物を方々から集めて校勘し、分類整理したという『昊本遺編こうほんいへん』幻の初版本まである。

 浩国における諸制度や礼法における最高の権威を有する『浩典』の全巻も、そこで見つけた。


 『浩典』は、余りに内容が膨大過ぎるため、『浩典抄』という抄本が作られ、現在は専らそちらばかりが参照される、と巫澂の講義で聴いたのを皓月は覚えていた。

 抄本や選集の類いを嫌う筈の浩人がそうする位なのだから余程であろうと思ったものだった。

 実際『浩典』は、広大な書房の棚数個をまるまると占めていた。

 この全てを蔵書に備えている者は、そういない。

 全てに目を通している者となると、更に絞られる。

 今回、皓月が取り上げた、女官や宮女の服礼に関しては、いかなる抄本にも取り上げられていない、ということも確認した。それだけ顧みられていないということだ。


 あとは品茗会の話を聞きつけた王恵妃が噛みつくよう、仕向けた。ついでに周貴妃まで釣れた、という訳である。あるいは逆かも知れないが。




 先程の2人の対応を見るに、おそらく、後宮のしきたりとして口承されたことを、そのまま頭に入れているか、必要なときに側近達から聞いて確認していただけなのだろう。  


 他者からもたらされた情報の真偽。それは可能な限り、自分の目で見て聴いて、頭で考えて、確かめねばならない。幼い頃から師事していた、颱の太子太傅が、皓月の教育に際し、最も重きを置いたのがその点であった。

 故に皓月は、巫澂から教授された内容も、可能な限り関連する複数の書物に目を通し、あるいは資料にあたり、真偽を確認するようにしていた。皓月が巫澂の言を信用したのも、そうした結果、その発言に偏りも誤りもない、と判断したからだ。


「――更に申しますが、本宮は皇上の命によって、皇太子妃として水家に迎えられ、藍衣と龍光金釵、“殿下”の称を許された身。呼称は同じく“妃”ではありますが、本宮は正室で、お二人はあくまで妾。年長者とお譲りしておりましたが、本来、本宮がこうして立っている以上、お二人が着座しているのも浩の礼法上、非礼に当たります。自身が非礼を犯しながら、他人の非礼をあげつらうのは道理に反しましょう」


 皓月は、幼くして白虎の守護を受け、将来を期待されながら皇太子たる存在として、颱では朝では百官と渡り合い、戦場においてはすいとして武官を従え、時に敵と激しい命のやり取りをしてきたのである。その中で磨かれてきた皇族としての気稟きひんや、視線に宿る覇気は、到底、常人の及ぶところではない。


「ところで王恵妃。先日、東宮女官長が、恵妃に罰を受けたとか」


 最早、完全に皓月の気に呑まれている恵妃は、言葉もない。


「きっかけになった事案については、首謀者はすでに罰せられ、解決はしましたが」


 東宮女官長が怪我を負った件で、皇太子が動いたとのことだった。


「とすると、恵妃は、我が女官長の一体何を罰したのでしょう? 尚食と揉めたことでしょうか? それならば尚食は罰したのですか? 恵妃ともあろう方が、事の真偽を確かめもせずに罰を与える。それも東宮の者を、同意も無しに勝手に罰するとは。――東宮に対する明確な越権行為です。その御自覚とお覚悟はございますか」


 沈黙が落ちた。恵妃が、ガタガタと震えて崩れ落ちた。その様を、皓月は冷然と見下ろした。


「――今日はもうお帰りください、皇太子妃殿下」


 今にも憤死しそうな顔色で、なんとかそれだけを言った周貴妃に、それでは、と告げて、皓月は意気揚々と貴妃の宮殿を後にした。


 その背を追いかけるように、周貴妃の怒り狂った金切り声と、恵妃のくぐもった悲鳴が、いつまでも響いていた。

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