第五十一

「――玿兮しょうけい。玿兮はどこ?」


 煌びやかで重厚な帳を垂らした薄暗い閨中から、青白い手が、何かを求めて彷徨う。

 その腕は、棒きれのように細い。それを包むたっぷりとした袖が、その細さを際立たせている。声は迷い子のように頼りなく、消え入るようだったが、何かを求めている切実さを帯びていた。


「ここにおりますわ、俊慧しゅんけいさま」


 甘く柔らかな声がしたかと思うと、その手を、すっと別の手が握り返す。

 しゅる、と絹を擦る音が響き、そっとしんだいから裸足の足が台へ降ろされる。握られた手を支えに、立ち上がってきたのは、白い寝衣しんいの少年だった。その目もとには、白い帯状の紐が巻かれている。


「どこに行っていたの? 玿兮、――三度も呼んだのに」


 責めるような割に、少年の口調は、母か、或いは姉に甘えているような声音だ。


「誠に申し訳ございません。貴妃様に呼ばれておりましたの」


 対する声は、どこまでも柔らかい慈母の如きそれで、包み込むようだ。


「母上は、僕のことを何か言っていた?」

「はい、昨日殿下がお贈りになったお花を、大層喜んでいらっしゃいました」


 そう、と口元に笑みを浮かべて頷く。


「でももう、僕の傍を離れないで。いいね? 玿兮」

「ええ、勿論ですわ。――わたくしの愛しい殿下」


   * * *


 尚王はその日、珍しくも自ら生母である周貴妃の居殿を訪れた。庭を突っ切って向かう途中、隅にうち捨てられた花が放られているのを見つけた。

 すっと拾いあげ、一瞬、水晶玉のような目を開く。

 それから、くるくると弄びながら、扉をくぐる。


「母上、そんが参りました」

「水遜……お前から来るとは珍しい。なれど、ちょうど良い。こちらにいらっしゃい」


 さて、何でしょう、へらへらと応えると、貴妃は手の扇を、音を立てて閉じ、キッと息子を睨み付けた。


「最近、皇太子妃につきまとっていると聞きましたよ。一体何を考えているのです」

「母上にまでそんなお話が届いているのですねえ。確かに、私はあのお方の(音楽の)虜ですよ。こんなに夢中になったことは、未だ嘗てございません。まさに運命!! 運命と申せましょう!!」

「おだまりなさい。何を世迷い言を……そんなことより、お前にはもっとすべきことがあるでしょう!! 昔はもっと真面目だったのに――」

「昔は昔、今は今ですからぁ~。どちらかと言うと、昔の方が無理していたと申しましょうか」

「遜……そなた……よくも……」

「兎も角、ご威光まぶしき皇太子妃殿下の名誉や御身を私如きが害せよう筈もございません。もし万一、斯様なことがございますれば、皇太子殿下の名誉にも関わりましょうし。さすれば、此度の同盟と婚姻を取り持ちなさった皇上が黙っておりますまい。無論、颱の女帝も」


 道化た口調で言い、先程拾った花を、拍子をとるようにくるくると回す。一方、周貴妃は黙り込んだ。


「皇太子妃殿下の輿入れも、数多の妨害にも関わらず、結局何事もなかったかのように入宮されたではございませんか。それぞ皇太子妃殿下が重んじられている証。手を出せば、こちらも無傷では済みますまい」


 「ね?」とへらり笑む推恩に対し、貴妃の表情が僅かに動く。


 颱の皇女の輿入れを阻止しようと、諸臣を操ったのも、数多の刺客を送ったのも、全て貴妃と、その父である周宰相であった。

 嫁いで来てからは、頻りに毒薬を仕掛け、妨害も働いた。

 それなのに、儚げな颱の皇女相手に有力な一撃一つ与えられていやしないのである。


「兎も角、これ以上、水璧志すい・へきしを調子に乗らせてはならぬ。本来は、お前こそが皇太子になる筈だったのだから」

「“筈”はあくまで“筈”に過ぎませんから~」

「……お前がちゃんと然るべき地位に就いたのなら、颱の皇女のことは、好きにしていいわ」

「それはそれは。――結構、魅力的なお話ではありますねえ」



――――――――――――――――――

【補足】

「俊慧」は窈王、「玿兮」は窈王妃の字です。

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