第五十

 その日、いつになく玉泉宮はざわついていた。今日は、以前から準備をしていた品茗会の日であった。


 開け放った正殿は風と光とを取り込み、爽やかな色合いの颱産の薄絹を垂らして玉で飾り、颱の特産である涼しげな瑠璃の器に様々な果物や菓子を盛り付けている。茶の香りを邪魔しない香の煙のくゆりを幽かにたなびかせたそこは、常人の踏み入ることのできぬ、秘境に佇む仙宮を彷彿とさせる光景であった。


 出迎えた女官達は、揃いの新しい衣を纏い、玉の簪に玉釧うでわ、瑞々しい朝摘みの白い迎親花げいしんかを身に着けて、訪れた者達の視線を奪った。

 羨望の色を滲ませた者もいれば、あからさまに眉を顰める者もいる。


「本日は、よくいらっしゃいました」


 皓月が姿を現すと、客が一斉に立ち上がり、拝礼する。


「皇太子妃殿下にご挨拶申し上げます」

「皆様、どうぞお直りください」


 琳琅たる声に促され、客達はそれぞれに顔を上げた。

 白牡丹の如き絢爛たる微笑みをよろって立つ皇太子妃は、薄紅色の衣の上から、雲霞の如き白く薄い衣を重ねた衣を纏っていた。銀糸でごく精緻な刺繍が施され、帯から玉と薄緑色の彩絹あやぎぬとを垂らした様は、艶やかな白銀の髪や、金緑の瞳と相まって、蓮の花の精の如き飄逸ひょういつとした風情を醸し出していた。仙宮に紛れ込んだかのような場の設えもまた、その印象を強める。衣の意匠は浩人好みだが、白い手首に連ねた金釧うでわや、瓔珞くびかざりなどには颱の趣が感じられた。


「私がお招きした初めての品茗会です。折角ですので、本日は皆様に颱風のおもてなしをさせていただきましょう。どうぞ、ゆるりとおくつろぎください」


 客が席に着いたのを確認すると、自身も席に着き、水盆で手を清め、卓子に向き直る。すっと茶則茶さじを手に取る。ただそれだけの、何気ない動きだったが、蝶の舞うような優雅な動きに、ひっそりと感嘆の溜息がどこからか漏れた。

 それを合図に、控えていた楽師の弾じる琴の音が響き始める。


「――颱における茶藝さげいの歴史は、颱が未だこうの一地方に過ぎぬ頃、千年以上昔に遡ります。特別の茶器を揃え、決まった手順を踏み、最後の一滴までを丁寧に抽出し、香りを楽しみ、茶の味わいを尽くす。その為、古来より多くの人々によって練られた手順がございます」


 優美な軌跡を描く手は淀みない。

 琴の音と、腕の動きとが調和した様は、座してなお、一差ひとさしの舞のよう。

 茶壺の上にういた灰汁を取り除く“清風拂面せいふうふつめん”、その後、茶壺の蓋をした所で、上から湯を注ぎかける“重洗仙顔じゅうせんせんがん”の工程を行う。


 湯気が立ち上る。仄かに茉莉花に似た香りが漂う。

 次いで、しっとりとした蜜の香りがふんわりと場に広がると、静かながら歓声に似た溜息が、今度ははっきりと漏れた。

 この瞬間は、皓月にとって、至福の瞬間だった。知らず、唇の端にこもっていた力が抜け、柔らかに弧を描く。


「飲み方などにも、より味わいを尽くす為の様々の作法や要訣がございますが。まずは皆様、気軽にお楽しみください。颱の茶は、そのままでも大層素晴らしい味わいでございます故」


 ほっと、場の空気が僅かに解ける。しっとりと流れる楽の音が、陶酔をさらに高める。


「――皇太子妃殿下はまこと、大国の姫君ですわ。わたくしどもとは、気品や心遣いが違います。そうは思いませんか、恭王妃きょうおうひ様」

「……ええ。尚王妃しょうおうひ様の仰る通りですわ」


 視線を交わした両者の間に、何か、見えない緊張が走った気がした。不貞を働いている側とされている側、仲が良いわけがない。そう思って離れた席にしたのだが、こうも積極的にぶつかり合うのならば余り意味は無かったか。ところで、尚王妃はともかく、恭王妃の皓月を見る目が、心なしか厳しい気がした。

 如何にも貞淑で真面目そうな恭王妃のことだ、皓月が差配した官女達の姿に、思うところがあるのかもしれない。が、それにしては、非難と言うよりは、恨めしげな表情だ。


「皇太子妃様、まことに素晴らしい香り、味わいですわ。何と言うお茶か、伺っても宜しいですか?」


 心の中で首を傾げていた皓月に声を掛けたのは、窈王妃ようおうひだった。


「勿論です。こちらは“桃花流水とうかりゅうすい”と名付けられております」


 桃花の舞い散る流水を進み、仙境に迷い込んだ男の故事に因んだ名だ。

 始めの青みを帯びた茉莉花の香りが、桃林を彷徨う様子を、その後に広がる蜜を滴らせた白桃を思わす芳醇な香りが、仙境に至ったあとの歓楽のひとときを表現しているとされる。


「まあ――名前まで風雅ですわ。颱茶は皆そのように詩や故事に因んだ命名を?」

「ええ、仰る通りです」


 それからは空気が険悪になることも無く、品茗会は刻限を迎えた。土産に皓月が調合した香を入れたにおいぶくろを渡す。盆にそれを載せ、自分のもとへ持ってきた露珠ろしゅを、尚王妃がチラリと見遣った。


「――東宮の官女たちは、皇太子妃殿下にご様子」


 含みのある言いように、皓月は却って、裏のない笑みを浮かべた。


「ええ。真摯に仕えてくれる者達に報いるのは、東宮の内政を預かる身として、当然の務めでしょう」

「……流石は皇太子妃殿下、お心掛けでございますわ。素晴らしい妃をお迎えになって、皇太子殿下もでしょう」


 尚王妃もまた、うすく微笑みを浮かべて返してきた。


「それでは、失礼致します」

「お気を付けて」


 全体としてまあ悪くは無かったと言えるだろう。

 何とは無しに、左手の人差し指に嵌めた、月来香げっかびじんを象った指環に触れる。


“――良いか、月児。色恋に疎いそなたがもし男を選ぼうとするならば、ともに茶を飲んで存分に楽しめる男にするのだよ。この私の様に、ね”


 いつだったか、艶麗な笑みを浮かべながら師傅しふが言っていた、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。途端に、心がざわついた。なぜか。最近、こんなことが多い。一体、どうしたことだろう。


「本日は、大変素晴らしいお茶をご馳走くださいまして、ありがとうございます。お茶の奥深さというものを感じましたわ。いただいた香も、素晴らしい香りですわ。しっとりとして、心が安らぐような」


 窈王妃だった。


「ありがとうございます。――宜しければ、是非またいらしてください。お茶も、今日はお出ししなかったものがまだ沢山ございますから」


 言うと、彼女はまろやかな頬をうっすらと染めて、是非、と微笑むのだった。


――――――――――――

【補足】

お茶の淹れ方は、中国茶の功夫式を参考に書きました。“桃花流水”のお茶の名などは創作です。


尚王妃が含みある発言をしています。

この発言が意図するところは、52話で明らかになります。

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