傳第一 閨怨

(* * *)

「もうちょっと右! あっ、今度は右過ぎ!! 頑張って、静兄様!!」


 少女の高らかな声が、蒼穹に舞い上がる。


 少女は、少年に肩車され、必死に桃の木の上の方へ手を伸ばしていた。紅葉のようなあどけない手のひら伸ばす先には、枝に引っかかった手巾がはためいている。急に吹き荒れた風で枝の上まで吹き上げられてしまったのである。それは、早くに亡くした少女の母の形見の品だった。


「っ、まだ? 雅妹」

「もう、あと、少し!! ――あ! 取れた!! 取れたわ!! 静兄様」


 喜んだ彼女が勢いよく手を振り上げると、「うわっ」とよろめいた少年の足下が危うくなる。

 大きく均衡を崩して地面に倒れ込む。胃が持ち上がるような感覚に、思わず、少女の口から悲鳴が飛び出た。が、思ったような衝撃はない。恐る恐る、顔を上げる。


「――あたたっ……」


 苦しげな声は、下からだった。少女は、少年の真上に落ちていたのだった。


「だ、大丈夫? 静兄様!」

「……大丈夫だよ。それより雅妹は、怪我はない?」

「血! 血が出てるわ!」


 顔を青くしたと思ったら、瞬く間に真っ赤に染め、ぼろぼろと泣き出した少女の頭を撫でて、「このくらい、なんてことないよ」と少年は微笑んだ。それでも泣き止まない少女に、少年は手近な桃の木から手折った枝から、咲き誇る桃の花を彼女の髪に挿した。


「うん、よく似合っているね」


 ほんの少し、照れたように微笑む少年に、残りの枝を渡された少女――後に入宮し、周貴妃と呼ばれる事になる――は、この時、八歳。柔らかな薄紅色の桃の花を手に、はにかむように微笑んだ。


   * * *


 すっと、しなやかな素手が、箱にしまわれた翡翠の釵を手に取る。薄紅に染められた爪も、僅かに紅を掃いた口元も、及笄を迎えたばかりの初々しさが滲む。艶やかな黒い髪に釵を挿して鏡を見詰める目は陶然と潤み、頬は白桃のように瑞々しく、唇の端も緩やかに上がっている。

小姐お嬢様老爺旦那様がお呼びです」

 乳母の声に、はったと我に返った彼女は、慌てて釵を髪から抜いて袖の中に隠した。


「……お父様が? 珍しいこともあるものね……」


 首を傾げながら言う。数年前に再婚した父は、若い継母と彼女が産んだ娘ばかりを可愛がっている。嫡子である兄には目を掛けていたが、雅琴と、すぐ下の妹の事は、相対的に放置ぎみだった。だが、雅琴はあまり気にしていなかった。そのお陰で、兄の友人で幼馴染みの徐静脩じょ・せいしゅうと会うことにも、とやかく言われることもなかったから。

 そんな父が、一体自分に何の用か。首を捻ったが、はっと思い至り、勢いよく立ち上がった。


(きっと、静兄様が、お父様にお話ししてくれたのね!)


 その数日前、雅琴は、静脩から求婚を受け、この翡翠の玉釵をもらっていた。

 期待に胸を躍らせ、父の元に向かった雅琴だった。ところが、上機嫌な父が告げたのは、全く予想外の内容だった。


「おまえには、近々入宮してもらう。皇上の妃となるのだ」


 衝撃に、袖の中で持っていた釵が、ぽとりと落ちる。目敏く見つけた父が、顔色を変えた。


「な、なんだお前。こんなものを、いったい誰から」

「い、嫌です……! 皇上の妃など、わたくしには……!」



 「後宮佳麗三千人」と言う。皇后を筆頭に、妃嬪や官女を含めればそれ程の女性が鎬を削る、嫉妬と情欲と怨嗟に塗れた闘いの場に身を投じるなど、雅琴には考えられないことだった。

 素早くそれを拾いあげた雅琴は、父の眼から隠すように、両手で包み込んだ。


「まさか、徐家の小伜か!? 彼奴、よくも――」

「絶対にわたくしは、後宮になど参りません! 絶対に」


 キッと父を見上げ、雅琴は己の意志を枉げぬ姿勢を見せた。

 父は、そんな雅琴を見ていたかと思えば、急に苦笑を浮かべて髭を撫ぜた。


「ふむ……どうしようもない強情娘だ。ならば仕方あるまい……徐家には儂が話を付けてこよう」

「お父様!?」


 恐々と言う娘の顔を見て、父はますます笑みを深めた。


「向こうにも準備が要るだろう、花嫁を迎える、な」

「お父様!!」


 途端、雅琴は頬を染めて喜色を満面に浮かべた。

 父が許してくれたのだと、雅琴は自分に都合良く解釈していた。


「だが、雅琴。昏礼を迎えるまで、もう徐静脩に会ってはならん。そこは礼節を弁えるよう」

「はい! はい! お父様!」


 父の傍らで、僅かに目を逸らした兄の表情の意味に気付く聡さが、このときの自分にあれば。――何かが変わっただろうか。


 * * *


「小姐、刻限にございます」


 迎客むかえびとが至ったという報せを受け、花勝ヴェールを被せられ、雅琴は意気揚々と迎えの車に乗った。音楽が高々と上がり、人々の歓声が上がる。


 違和感は、その時既にあった。


 周りを囲む用人がやけに物々しい。程なくして、到着が告げられ、違和感は確信に変わった。前後は見えなかったが、手を引かれて案内される道順が、余りに複雑過ぎた。


 慣れ親しんだ徐家の邸ではないと。花勝の下で、雅琴は青ざめた。

 

 お父様は、自分達のことを許してくれた訳ではなかった――。

 

 自分に見せたあの笑顔の下で、一体何を考えていたか。思えば、ぞっとした。


 皇帝ですら無視できぬ権力者である父。その一端を垣間見た。絶望に染まる視界は、花勝の下、ますます黒く狭まる。後宮という未知の空間に深々と入っていく先に、様々な儀礼をこなしながら、雅琴は、もはや、自分が何をしているのかも判然としない。


 呆然としている間に、花勝が取り払われて、目の前に見知らぬ青年が立っている事に気付いた。


「先程から心ここにあらず、だな」


 見上げるほどに高く、戦士のように鍛え抜かれた体躯からは武の匂いが迸っていた。どちらかいえば、文雅の人といった雰囲気の兄や、静脩とは余りに違う。冷淡な切れ長の青い瞳に射貫かれるだけで、恐ろしさに震えるしかない。


 この御方が、浩の皇帝。数多の兄弟達を殺して、玉座に即いた――。


「きいていたかどうだか知らぬが、そなたには現状、後宮の筆頭となる貴妃の地位を与えた。本来なら、入ってすぐに貴妃というのも例のないことではあるが、余は即位したばかりで忙しい。後宮にかかずらっておれぬ故、そなたに任せる。せいぜい上手くやることだ。余の手を煩わせることの無いよう」


 そればかり言い捨てると、雅琴の返事も待たず、背を向けて出て行った。


 それから皇帝は、すぐに戦へ出てしまった。


 雅琴よりも年上で、妃嬪として、異国の姫や王女たちが集められた後宮の中、何の覚悟も無く、ぽんと与えられた貴妃の位。幾度と無く命の危機にさらされ、屈辱を受け、それでも何事も無かったかのように、微笑み続けなければならない、毒花の苑。


 いかなる美しい花とて、土壌が悪ければ、芳しとはなりがたい。その毒を食らって、自身も毒花となるか、さもなくば、その毒で死ぬか――そう悟るのに、大した時間はかからなかった。


 静脩はどうしていることだろう。考えない日はなかった。徒に日々を過ごす中、もはや静脩との未来が断たれたのならば、いっそこの毒に倒れるのも悪くはない、そう思っていた。


 そんなとき、彼に再会した。皇太后の命で、諸臣の集う新年の宴が催された日だった。後宮に閉じ込められた妃嬪達も、この日は外の者達と顔を合わせることとなる。

 雅琴の姿を見て、彼は小さく目を見開いたが、慌てた様に背を向けた。


「待って! 静……」


 その袖を掴もうとした。が、こちらを向いた静脩が跪いて、行き場をなくした掌が宙を彷徨う。


「……ご無礼を。周貴妃様」


 伏せられたままの目は、交わること無く逸らされた。


「――っ――」

「御身、お厭いください」


 言ったきり、足早に去って行く背なに、小さく呼びかける。掠れた声が、二人の間に落ちた。が、彼は足を止めることもなく行ってしまった。


 彼の立場では、そう言うよりないと、頭では理解していた。


 でも、拒絶された衝撃は、それを受け容れるような心をなくさせた。

 己を拒絶した彼へ、己を騙した父へ、父が己を欺いていることを黙っていた兄へ、己を顧みぬ皇帝への怨嗟の情が満ち溢れてもはや、零れていくのを留めるような術もない。


 これまで、彼女が密やかに育ててきた、心の中の、何か最も脆弱で、最も清らかな何かを、尽く、踏みつけにされた気分だった。


 言葉もなく、その場に立ち尽くす雅琴の足下にはもう、ひたりひたりと、後宮の血だまりが迫っていた。


   * * *


 それから暫くして、長い遠征から漸く皇帝が帰還した。皇帝は、一人の女人を連れていた。


 皇帝は、女を誰の目にも触れぬように自宮に住まわせ、周囲の反対を押し切って、皇后に立てもした。

 

 だがある時、雅琴は偶然、目にした。


 銀の髪に銀の瞳、銀の爪をした、この世のものとも思われぬ、天女の如き清麗な美。そして、万物を愛し、全てを受け容れる月の如き、慈愛を満身に湛えた女人を。


 そして、戦場こそ我が住処とばかりに、年がら年中戦に明け暮れ、その目にいつも殺気を漲らせたような皇帝が、その女へ向かって、愛おしげに微笑む姿を――。



 偏った寵愛は、争いのもと。今や後宮中の閨怨の情は、後ろ盾もなく、ただ皇帝の寵愛のみを頼みに立つ皇后、ただ一人に向いていた。


 不審な事件が宮中で囁かれるようになったのはその最中であった。


 始めは、ほんの数人、姿が消えただけだった。色々な事情で、そう言うことが起こるのは珍しいことでも無かった。ただ、運が悪かっただけ。そう受け止められていた。


 なれど、官吏の一人が、で発見されてから、大騒ぎになった。

 箝口令が敷かれ、警備が強化され、捜査が急がれたが、犯人は杳として知れず。どころか、厳重な警備を掻い潜り、半ば娯楽のように人が次々殺された。胸に穴が――心臓を抜かれて殺されたという猟奇性が、人々の恐怖と想像を掻き立てた。


 一連の事件に、皇后が何らかの関係があるのではないか。


 皇帝が頑なに皇后を秘したことも、その推察を強める方向へと動いた。

 

 皇后が、この世の者とは思われない程の美貌を持つことを知っていた雅琴は、皇后こそ妖魅の類だったとしても不思議はないと思っていた。故に、その噂を煽るようにひっそりとけしかけもした。


 ある時、恐怖に駆られた人々は、揃って皇帝に訴えた。――どうか皇后を廃して欲しいと。


 が、皇帝は決して頷かなかった。それどころか、訴えた者達を、妄言を吐き、皇族を侮辱したとして捕らえた。彼らの二の舞を恐れて人々は口を閉ざした。が、犯人は見つからぬままだった。


 その後も、皇帝は皇后を偏愛し、他の妃嬪には目もくれなかった。



 そんな中、風の噂に、静脩が、雅琴の異母妹と結婚したと聞いた。

 他ならぬ妹の事だというのに、“風の噂”とは。何故、妹ならば良くて自分では駄目だったのか。父の意が理解出来ない。


 それから程なくして、静脩と妹は、赴任先へ向かう途中、賊に遭い、仲良く冥府へと旅立った。


 そんな話を聞いても、もはや雅琴の心は、小揺るぎもしなかった。


 それよりも、皇后が身籠もったという報せが、雅琴の鬼気を助長させた。


 もはや、この先には、血濡れた道を進むか、諦めて寂しく枯れるかしかない。だが、後者を選ぶ心は、雅琴の頭に毛ほども思い浮かばなかった。


 あの女に関わるもの、全てを踏みつけにしてやらねば、気が済まぬ。

 全てを踏みつけにされた、自分と同じように。


 この時、彼女の中に僅かながら残っていた、桃の花を髪に挿されて、はにかむように微笑んでいた少女は、完全に死んだ。


 寝ても覚めても、考えるのは、いかに皇后を除くか、ということだけだった。


 あらゆる手を尽くし、皇后を毒殺し、生まれたばかりの、その玉のような赤子すら殺そうとした。が、皇帝はその赤子を離宮へと追いやり、一切の関心を示さなかった。


 謎の不審死はピタリと収まっていた。犯人は矢張り分からずじまいだった。だが、喉元過ぎればなんとやら。いつしかその事件は忘れ去られていった。


 その後しばらくして、皇帝はこれまで一切見向きもしなかった後宮の妃嬪達の元へ、きっちりと慣例通り、暦に合わせて通うようになった。それは却って、皇帝が最早誰にも心を寄せぬことの証左とも思われた。


 雅琴も身籠もり、二子を生んだ。皇后を亡くし、皇帝も漸く、考えを改めたのかと思っていた。


 だが、ある時、雅琴は鏡越しに、己を見る皇帝の目に気付いてしまった。

 一瞬で消え去った、探るような目。――全てを知っているのだ、というような。


 一切、証拠は残さなかったはずだ。

 薬を盛らせた医官は既に、不幸な事故によって死んだ。

 が、密かに監視をつけていた離宮から皇后の子が姿を消したと知って、雅琴はますます不安を抱いた。


 どこまでも、人の心をかき乱す、忌々しい女。


 皇后の生んだ男児は、青龍の守護を得るべき青い髪も、青い目もしていなかった。

 亡き皇后に似た、銀を身に備えた、異貌の皇子。――出産に立ち会った産婆から聞いて、雅琴は、一安心した。

 嫡子とはいえ、これでは青龍の守護は得られない、と。


 幸いにして、その後、雅琴が生んだ二人の子のどちらも、青龍の守護を得ていた。

 特に、兄の遜は、優秀だった。だが、遜はいつの頃からか音楽に耽溺して大事を疎かにするようになった。遼は、周貴妃や周宰相の手前、表立って悪くいう者はないが、どうにも侮られがちだった。何を考えているか分からない遜よりも、慕ってくる遼の方が扱い易くはあったが。

 どうにも遼の笑顔が雅琴の気に障って仕方が無かった。


 あの邪気の無さが、かつての、――愚かだった自分と重なるからか。

 

 一刻も早く、遜を皇太子の地位に即けさせねば。そうなれば、もう、皇帝にすら用はない。愛しい皇后の元に送ってやるだけだ――と。そう、ずっと思っていたのだ。


  * * *


 今、罪が曝かれ、誅殺の剣に貫かれ、己の血だまりの中に身を沈めながら、雅琴は思う。


 ただ、人を恨み、人を陥れ、得られぬ愛を妬み、運命を呪い、差し出された愛をはねつけ、己の生は、一体、なんだったのか。


 意味も無く伸ばした手は、誰に手を取られることもなく、虚しく空を切る。


 一瞬。甘く穏やかな桃の花の香りがかすめた気がした。あの香りのように、甘く、柔らかなものに包まれていた少女の頃。ささやかながらも、幸せは、ここにあると、信じていたあの頃。


――だが、それも今となっては、余りに遠い。


 遠く、来すぎてしまった。

 ひたりと頬を濡らす、血のつめたさが、それを突きつける。


 頬を、涙が伝う。

 その涙までも、重く、沈み込むように冷たい。

 

 白い頬を流れ落ちた、その涙の意を、解し得る者は居たであろうか……。

 

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