紀第十九 雩祭、そして
第七十三
剣の血を払い、鞘に収めた皇帝は、その場に膝を着いた。場の者達が一斉に跪く。
荒く息を吐きながら、皇太子を傍に呼ぶ。
「詔を下す。皇太子
「……。謹んで拝命いたします」
太子監国の詔――それは、皇帝が何らかの理由で政務を行えない場合、皇太子が代行することをいう。今、皇帝が回復するまで、政務を皇太子に任せるということは、此度の一件諸々の処理を任せるということ。この瞬間、皇太子の勝利がほぼ確定したと言えた。
皇帝について事態を見守っていた宦官や兵達が駆けつけてくる。「太医を!」と叫び、すぐさま輿にのせられ、皇帝は運ばれていった。相当無理をしていたようだ。皇太子の指示で、窈王、窈王妃、尚王妃、恭王妃がそれぞれ連行されていった。
周貴妃の遺体も運ばれていく。
「推恩、そなたももう戻れ。その額、早く手当をしてもらうことだ」
「かえって、男ぶりが上がったとは思いませんか? 水じゃなくて、血も滴る良い男! なんちゃって~」
尚王は箜篌を小脇に抱え、腕を上げて気障ったらしい仕草をしてみせる。
「……」
「……兄上、そんな目で見ないで下さい……。この数ヶ月、兄上の為に私がどれだけ頑張ったと思って……! もう少し、労ってくださいよう!」
仲が良いのか、悪いのか。
胡乱なものを見るような目を尚王に向けていた皇太子は、息を吐いて、それから、にこりと微笑んだ。
「色々助かりました。ありがとう、推恩」
尚王が、後ろで「兄上!! もう一回!!」などと叫んでいたが、笑顔で黙殺していた。
「お体は大丈夫ですか? すっかり冷えてしまったのでは。――東宮へ戻りましょう」
皓月の前に、すっと、自然に手が差し出された。躊躇いながら、その掌の上に自分の手を重ねた。
「あ、そうでした」
途端、皇太子は少し目を見開いた。
「――いかがです? 楽になりましたか」
「ええ。――ありがとうございます」
窈王の毒は、皓月の予想通りだったらしい。皇太子の体を巡り、木気を脅かしていた金気を少し調整したのだが、上手くいったようだ。
「ははあ。そう言う事でしたか」
その様子を見ていた、尚王は、得心がいったように頷いた。
「尚王殿下も、処置致しましょうか?」
見たところ、皇太子よりも尚王の方が重傷な気がした。
「いえいえ~!! 対処法が分かれば十分です。あとはなんとでも。兄上に恨まれたくないですからね~」
「はい?」
「はっはっはっは。お気になさらず! それでは兄上、これで失礼致します」
「――尚王」
去りかけた尚王の背に、皇太子が声を掛ける。びくり、とその背が震えたようだった。
「明後日、東宮に」
「……………は。はぁい」
疲れが一気に襲いかかってきた様な様子で、尚王は今度こそ帰って行った。
「では参りましょう」
はい、と歩き始めて、左足に痛みを覚える。天井の下敷きになった時に傷めたのが、先程の戦闘で、悪化したらしい。全てが終わって気が抜けたのもあろう。俄に痛みを増してきた。
「……お怪我を?」
「え? いえ、大じょ――うえっ!?」
答えるより早く、体が浮いた。またしても横抱きにされ、反射的にその肩に手を置いて体を支える。悲鳴とも唸りともつかない妙な声が喉の奥から飛び出す。一方の皇太子は、いつも通りの微笑である。
「わたくしよりも、殿下のお怪我は――」
「ああ。ご心配なさらず。もう治りました」
綺麗な笑顔で平然と言ってくるので、皓月は真顔になった。
「――そんなわけがないでしょう!?」
その後も、下ろすように繰り返し主張したものの、さらりと笑顔で流され、結局聞き入れては貰えなかった。
幽閉されていた皇太子妃を抱えて戻ってきた皇太子の姿に、東宮は大騒ぎになった。
きゃあきゃあ騒ぐ女官や宮女達に囲まれて大層居心地の悪い思いをしながら、玉泉宮の湯殿まで運ばれた皓月は、彼女達の手に引き渡された。
「もう大丈夫ですから。ゆっくり休んで下さいね」
例の如く、柔らかな笑みを浮かべてそう言い残し、皇太子は戻っていった。
それから、濡れそぼった衣を引っぺがされ、あたたかな湯の中に突っ込まれ、それで漸く、ほうと長い息を吐いた。瞼が重い。余りに疲れすぎて、体を動かすのも億劫だった。
(あれは一体、……どっちが素なんだ……?)
ぼやけた頭に、そんな問いがふと浮かんだ。が、答えは出なかった。
身を清め、しっかり暖まって新しい衣に袖を通し、ゆっくりとお茶を飲んでやっと人心地付いた皓月は、数日ぶりに、漸く深い眠りに着くことができたのだった。
* * *
尚王府に戻り、傷の手当を済ませた尚王・水遜は、上着を放り、靴を脱ぐと、牀に倒れ込んだ。
すっかり疲れてしまった。全く、兄太子は人遣いが荒い。
あの日、池のほとりで呼び出しを食らってから、働かされまくったのである。おまけに、表立っては動けない皇太子の代わりに皇太子妃の近くで睨みをきかせておけとまで命じられた。
遜自身は兎も角、その背後の周宰相や貴妃を恐れて、彼の気に入らないことをしようとする者は、そう多くはない。
故に、あれほど頻繁に通ったのである。特に黒宮に皇太子妃が囚われてからは。それは確かに、尚王だからこそ出来ることではあった。
獄吏が囚人に無体な真似を働くことは、得てしてあること。無論、大っぴらにはされていないが。今回のように、皇帝の暗殺が疑われ、黒宮に囚われたような場合、その真偽は兎も角、再び生きて外へ出られる可能性は薄いため尚更である。
が、無論、何か兄が格別に意を注いでいるらしき妃にそれを許すつもりはなかった。皇太子妃は、彼にとっても大いに興味深い人物ではあった。実際結構楽しんでいたのは認める。
大変だったのは、そこに加えて、今回の一件で暗躍している者達をあぶり出したり、根回しをしたりといった、色々の工作である。これはまことに、神経がすり減った。こういうことに煩わされたくないから、彼は玉座など兄に任せて自分はのんびり暮らそうと決意したのに。
結局、ここまで関わることになってしまった。
(……“明後日、東宮に”来いって、……事後処理を手伝えってことですよね……)
それでも、明日一日を空けてくれたのは兄の優しさかもしれない。……多分。おそらく。きっと。
生けられた花が目に入る。もうすっかり干からびてしまっている。
貴妃の院子の隅に、うち捨てられた一輪を、随分前に拾ってきたのだから当然だろう。これでも長持ちした方ではあったが。
“私が皇位を手に入れたら、兄上と同じように、私のことも、愛してくださいますよね?”
愛されてなどいない。
結局のところ、貴妃は、誰のことも愛していなかった。
同じだったのだ。自分も、窈王も。それなのに。
「……馬鹿だな……遼……」
ひとり呟いて、花を握りつぶした。
* * *
皇太子妃宮から玉鱗閣へと戻る道すがら、慣れた気配に旣魄は足を止めた。巫澂――瀏客だ。
「どうぞこちらを」
青龍の尾に傷つけられた背を隠すように、新しい斗篷が渡された。既に傷は痛みすらしなかったが、見た目の良いものでもない。受け取って手早く身に着ける。
「――瀏客。貴妃のこと、すまない」
周貴妃とその一派の悪行を白日の下にし、その罪を償わせることが、旣魄の、そして瀏客の悲願だった。皇帝が自ら手を下したのは、それだけ恨みが深かったが故ではあろう。
(……全く、余計なことを……)
浩がいただく青龍は武神としての側面もあり、歴代の皇帝も武に秀でた者が多い。殊に今上は、まだ皇子の時分、西へ東へ戦場を渡り歩かされていたという。そのため、自ら刃を揮うことに躊躇がない。
天子の揮う誅殺の剣を受けた者は、魂もろとも砕け散ると云われ、雷に打たれて死ぬことと同等、或いはそれ以上に畏れられてもいる。
だが、自分達の没落と敗北の様を見る事なく死んだのは、あの女にとっては幸いだったかもしれない。
旣魄も瀏客も、あんな風に、簡単に楽にしてやるつもりはなかった。
まさか周貴妃が、ああもあっさり自白するとは、旣魄も思わなかったのだ。だからこそ、これまで時間を掛け、確実に言い逃れ出来ない証拠を積み重ねてきたのだ。それがすべて、無意味になった。
だが、今さら言ったところで詮無いこと。それに。
「
「……そうだな。逃げられる前に、動く」
「
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