紀第三 後宮の攻防
第八
「……颱では白虎を守護の神として戴きますが、この浩では青龍を守護の神としております。その守護を得られるか否か、世継ぎたる条件は、颱と同様です」
蛇騒ぎの翌朝。時間通りにやってきた巫澂は早速、講義を始めた。淀みなく流れる水のような声は、聞いているだけで心地良い。神霊に人間の意志を
「白虎の守護を受けられるのは、白銀の髪に金緑の瞳の女人とされていますね。殿下の様に」
青龍や白虎の守護を得る、とは、通常、神の住まう霊界に在る彼らをこちらの世界に顕現させ、その力を身に宿すことである。
「同様に、青龍の守護を得られる方にも、特徴がございます。青・藍の色の髪と瞳の男子だとされております」
先日対面した、皇帝や他の皇族達の髪や眼は、確かにそのような色をしていた。皇太子もきっとそうなのだろう。
「多少色味に個人差はありますが、通常は、この特徴を有する方のみが、青龍の守護を得られ、皇位継承権が与えられます。皇位継承権のある方のみが皇子と称されます。それ以外の方は、男子は公子、女子は公主とお呼びします」
聞きながら頷く。この辺りは既に知って居る内容だ。浩における身分秩序というのは、颱のそれと大いに異なっており、より複雑である。颱に比べ、浩の皇族が遙かに多いためだ。
「それぞれの守護を持つ方がたが、身体に特徴的な色彩を持って生まれるのは、魂が神界からこの世へと送り出される前に、自分を守護することになる筈の彼らの霊力に晒されたため、と浩では申しております」
「颱でもそのように伝えられています。ところで、浩の青龍は、通常姿を現したりはしないのですか」
「そうですね。特別の行事の時にはそのお姿を現すことはあります。普段から顕現していらっしゃる方はあまりいらっしゃらないですね。体躯が大きいので、神界からこちらに姿を現していらっしゃる時には、人の姿をされていることが多いようです」
「そうなのですね……」
皓月を守護する白虎は、名を
颱の母皇や親族たちの白虎は、ほぼ常に顕現してともに過ごしている。幼くして白虎の守護を得た皓月もまた同じように、月靈と常にともにあった。が、浩に来て以降、月靈は基本的には神界へ姿を潜めている。敵対する浩で、白虎をこれ見よがしに連れ歩けば、威嚇に取られる可能性が高いだろうと考えたからだ。浩における青龍の事情を考えると、正解だったようだ。
「通常でしたら、皇子も公子も一定の年齢に達しますと爵禄や領地等が与えられ、独立されます。その場合、皇子か公子か、ご生母のご身分によっても差はございますし、ご本人の能力や功績によっても変わる場合がございます」
因みに、女子に皇位継承権のない浩には“皇女”は存在しない。一方、皓月や皦玲は、颱の“皇太女”“皇女”と呼ばれているが、これは今回の事があって急遽取り決めたらしき浩での呼び方である。もともと、浩では颱の皇帝を“王”と称していた。そのため、その娘たちも“王女”“王太女”と呼んでいた。それを今回、改めたということだった。
「颱では、皇の御子であり、白虎の守護を得た皇位継承権を有する御方を“
「はい。皇位継承権を持たぬ御子達の待遇は基本男女とも同じですので、それ以上の区別はしておりません。母皇に帝子はいらっしゃいませんが、母皇には
現颱国の相・
帝子を迎えるのは、士族にとって大変名誉な事とされ、宮廷から養育の資金と報償も支払われ、皆大切に扱われる。
長じれば父親の家を継いで宮廷に仕えることもあるし、別に職をもつ事もあるし、結婚等で家を出ることもある。それらは能力・資質などに応じて本人の意志が尊重される分、却って皇子より自由で気楽な身分といえる。
「皇子・公子の称が、皇位継承権を持つか否かを区別するための呼び名であるのに対し、公主という称は、それ自体が爵位を表す封号であります。基本的には封戸として拝領した地の名に“公主”を付けてお呼びします。細かい点につきましては、こちらをご覧下さい」
巫澂が出した上下巻の書物の上巻を手に取り、開く。すると、皇太子以下、諸皇族の爵位や領地とその規模、生母や妃の名とその出身地などが記されている。下巻は公主達についての情報で、封戸がどこで、どれだけなのか、嫁ぎ先や子の有無などが書かれている。一つひとつの記述は簡明なのに、随分な厚みがある。わざわざ持ってきたと言う事はまさか……。
「こちらにある基本的な内容については、全て覚えていただきます」
事も無げに言ってくれる。わかりました、と笑顔で返しはしたが、これはかなり骨が折れるに違いない。
気を引き締めて開くとちょうど皇太子の項だった。そこに、朱線が引かれているのが目に留まった。「妃 旦・
何気ない風を装い、すぐに書を繰ったが、その朱線の色が、目に残った。
巫澂が帰った後、彼が置いていった書物と暫くにらめっこをして頭に叩き込んでいたが、疲れを感じて一休みをする事にした。お茶を飲み軽く菓子をつまむと、外へと散歩に出た。
昨日は西側から昇龍宮に回った。今朝は案内の者が別だったからか、東から回った。その時、昇龍宮と皓月の住む玉泉宮が廊で繋がっていることに気が付いた。往来の便のためであろう。
東宮内は昇龍宮と玉泉宮を中心に、複数の建物から成っている。正門から入ると、謁見を行う前殿が見える。だが、昨日見たところ、
その奧に政務を行う臨華殿と、日常生活を送る昇龍宮が位置している。臨華殿と昇龍宮の間には皇宮から注ぐ水路が東西に流れ、いくつか丹塗りの橋が架かっている。
この水路の水の一部が、池に流れ込んできているらしい。近くで見ると、廊が出ていて、やや小ぶりの建物に繋がっている。池を一望できる開放的な作りの二階建ての建物だ。
随分大きな
池に設置された廊を歩いて行くと、中程に
水中に目を転じれば、錦鯉が無数に泳いでいるのが見える。皓月が近づくと、気付いたらしい鯉たちが、一斉に水面に向いて口をパクパクとさせた。
餌をくれると期待しているらしい。
「わたくしがあげても、構わないかしら?」
雨霄に尋ねる。
「ええ。きっと御鯉もお喜びになるでしょう」
思わず、“御”鯉呼びに突っ込みそうになって喉元まで出かかった声を、皓月は笑顔で引っ込めた。随分大層な扱いである。“主様”と呼ばれる、超巨大な鯉もいるとか。
(……玉鱗閣の“玉鱗”とは、まさか……この鯉達のことか?)
されば、皇太子宮たる昇龍宮の名も、鯉が滝登りをして龍になるという伝承から採っているのだろう。
与えた餌を無心に食べる鯉を眺めていると、先程の朱線で消された妃の名前が脳裏に浮かぶ。
旦の穆貴鳳。
その名は、二年前に亡くなった、元皇太子妃の名だ。浩の属国の一つ、旦の姫と聞く。皓月が住んでいる
建物に対して、扁額の字が随分新しいなと思って知ったことだった。
貴鳳は病死した事になっているが、昨日起こった蛇騒ぎを思えば、否、それ以上に、皇太子の母皇后が若くして亡くなっている事などからも、大体のことは察しがつく。
(――旦の姫は、皇太子に会ったことはあっただろうか?)
浩には、皇太子以外に三人の皇子がいる。
周貴妃の産んだ第二、第四皇子と、他の妃が産んだ第三皇子。
皇太子や皇太子妃を狙うとすれば、彼らかその母、さらにはその血縁や派閥の者達。数え上げればきりがない。
特に婚礼の時、にこやかな笑みを浮かべて、纏い付くような殺意を瞳に映していた貴妃。貴妃は、いずれ仕掛けてくるに違いない。
先日の婚礼でのやり取りなど軽い挨拶程度。恐らく、昨日の蛇騒ぎも。
本来の皓月だったら、蛇を滅多斬りにして箱に戻してこっそり相手の居所に置いておく位のことは軽くする。だが、今回は、ひたすら無に徹した。ここでの足場を確立できていないうち、必要以上に相手を刺激すべきではない。
餌を一通りやり終えた皓月は、ほんの少し寒さを感じて、その場を後にした。
それからしばらく、特に何事もなかった。
朝は朝食の後に巫澂から学び、午後は出された課題をこなし、一段落ついたら休憩を挟み、散歩しつつ鯉に餌をやり、読書をして過ごし、夕食後は学んだことの復習と翌日に向けての疑問点を整理し、入浴して眠りに就く。というのが、最近の一日の流れとして定着しつつあった。
巫徴も日を追う毎に皓月の知識の程を掴んできたらしい。
それに従って、どんどん要求してくる水準は上がっていった。
なんだか試されているように感じたが、負けん気の強い皓月は次々と消化していった。巫徴は巫徴で、「では、今日はこちらを」と出してくる声が、心なしか楽しげな響きを含んでいるような気がしないでもない。
その日は、あらかじめ巫徴から来られないと告げられていた。
二倍出された課題に追われている間に日が暮れた。月が塗りつぶされたように暗い
最近は、来客が多い。
基本的には浩の者なので対応に手落ちがないよう、朝から昼にかけては皇太子宮にもとからいた者達が、夕方から夜にかけては皓月が国から連れてきた者たちが主として皓月の傍に付くことになっていた。慣れてきたらまた調整するらしい。
「――それ、飲まない方が良いよ」
就寝前に毎晩、阿涼が用意してくれるお茶を茶器に注ごうかというときだった。颱の者達だけなので姿を現した慎の声に、阿涼が手を止める。構わず皓月はその茶を啜った。
「……まずい」
これなら味ですぐ毒入りだと分かってしまうだろう。
「姫。――酔狂に過ぎるよ……」
呆れたように言う慎に苦笑を浮かべる。毒入りの茶を皓月が啜ったというのに、阿涼も顔をしかめるばかりで、慌てた様子はない。
皓月には、毒は効かない。
正確に言うと、白虎の守護を持つ者には。
白虎が掌るのは金。金の性質は、清らかなこと、穢れないこと。故に毒は効かないのである。
これは颱でもごく一部の者しか知らない。
以前、皓月が東宮の女官長である雨霄に毒味は阿涼に任せるよう言ったのも、毒味が不要な為だ。無駄に東宮に仕える宮女達を危険な目に遭わせることもない。心得た阿涼ならば、それらしくうまくやってくれる。
「これだけ味に明確に出るものを仕込んだというのなら、殺害が目的ではない。ならばおそらく、警告といったところだろう」
「だろうねえ~」
阿涼が新しく用意した新しいお茶で口直しをしながら、ふと、今夜は笛の音が聞こえないなと思った。夜闇に融けるように毎夜響く、柔らかな音。
一体、どこから響いてくるのだろうか。
聞こえないと、なんだか物足りない。その程度には、その笛の音は皓月の耳と、心に馴染んでいた。
見上げた、漆を塗り込めたような空は、こちらを呑み込まんばかりに深かった。
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