紀第一 初夜とは名ばかり

第一

「……今の言葉、もう一度言ってもらえるかしら」

「は。『長旅の疲れをゆっくり癒やすように』との皇太子殿下よりのお言葉でございます」


 その瞬間、去来した感情もの

 風皓月ふう・こうげつは、今なら、九つの太陽を射落としたという伝説の弓の名手・羿げいの如く、太虚そらにかかる太陽をも射落とせると思った。


 否、必ずやあの太陽を射落として、皇太子宮たる昇龍宮しょうりょうきゅうもろとも、此度の不本意に過ぎる婚姻を終わらせてくれると思った。


 先程めでたくも夫となった、浩の皇太子と、この同盟のための婚姻を打診してきた浩帝の首までもを引っ提げて、故国・たいに華々しく凱旋してやろうとすら思った。


 だが、まだ夜は深い。

 射落とそうにも射落とすべき太陽はすでに遥か崦嵫えんじの山に沈んで見えない。


 政略結婚と、分かってはいた。

 長年の宿敵、浩の皇太子との婚姻である。

 歓迎などされないと。十分に分かってはいた。

 

 だが、しかし。


――流石に婚礼まですっぽかしてくれるとは思わないではないか。


 * * *


 楽の音が高らかに蒼穹に響きわたる。華やかなその音に、道往浩人こうひと達の視線が注がれた。

 

 一様に慶事を示す紅色の衣を纏う人々。「親迎」の札を持つ者が先導する、嫁入りの大行列である。


 儀仗・儀衛の列は果てもなく、幾つもの車が現れ、その度に人々は「あれが花嫁か」と推察したが、その度にまた、異なるきらびやかな車が通り過ぎた。


 余程高貴な身分の姫君の輿入れと見られ、或いは、そのお付きの侍女達のものか、随分と豪奢な、と人々が思い始めた時、一際絢爛たる四頭立ての車が現れた。

 錦繍きんしゅうの帳を四方に垂らし、雉の羽で飾り、香炉からは異国のものと思しき得も言われぬ芳香を周囲に漂わせる。その香りに陶然とした人々は、その車に施された龍の装飾に目を見張る。


 青龍を守護に戴くこの浩国において、龍の飾りを施された車に乗ることが許されるのは、皇族、それも許されたごく一部のみ。


「とすると、皇太子殿下の……?」


 皇族の中で、近々婚儀をすると知られているのは、皇太子だけであった。その少し前、皇太子のために大規模な「選秀女妃嬪選び」が行われるのでは、という噂が立ち、結婚が一斉に禁止される前にと大慌てで婚姻を結ぶ者が各地に溢れたことは、人々の記憶にも新しい。


 その最中で、皇太子の婚儀――“昏礼”の行われることが知らされたのである。


「それにしても、たいの王女とだなんて――」


 皇太子の妃となるのは、浩と並び称される大国・颱の皇女だということもまた、既に人々の知るところであった。この大行列も道理である。


「二番目の姫だろう。噂じゃあ、大層な美姫らしいぞ」

「美しい姫なら他にいくらでもいように。よりにもよって、野蛮な颱の姫がお相手とは」


 密やかな声が、あちこちから上がる。その響きは、この婚姻を歓迎するものでないことは明白だった。


「肝心の花婿がいらっしゃらないな」


 浩における昏礼において、花婿は花嫁の邸まで迎えに行く。それが“親迎”である。今回の様な場合なら国境まで、無理ならせめて、都の入り口までは迎えに行く筈であった。皇族であれば、花嫁・花婿ともに第一級の礼装たる藍の衣を着ることになっているので、紅い衣の群の中では大層目立つ筈であった。


「皇太子殿下も、受け容れはしたものの、本心ではお嫌なのだろうよ」

「――それって、前の時もそうだったって聞いたけど? だってさぁ、」


 過客たびびとふうのいでたちの若い男が軽い口ぶりでいうと、その続きを予見したのだろう。人々はピタリと口を閉ざし、青ざめた顔で男を見返した。

 

 対する男は、挑発的な笑みを浮かべ、軽やかに言葉を続けた。


浩国このくにの皇太子殿下って、超重度のひ――」


   * * *


 パチ、パチ……鋏が花の茎を断つ音が断続的に響く。慶事に用いられる豪奢な紅色の衣を纏った女は、案の上に並べられた切花を吟味し、手に取る。そして、手にした鋏で随意の長さに切ると、傍の瓶へと挿し込んだ。遥かに澄む青を湛えたその鳳凰耳瓶ほうおうじへいには、可憐な白い花を咲かせる春告げの雪花蓮まつゆきそうが活けられている。具合を確かめる様にそららを眺めていた目が、何かに気付いたように、すっと細められる。


「……到着してしまったようね。――なんとも女だこと」


 僅かに聞こえていた華やかな楽の音が止まったことを悟り、なんということもなげに零す。直後、女は手にしていた雪花蓮を、血で染めたが如き紅色の爪でぐしゃりと握りつぶした。


「全く。何もかも忌々しい」


 貴妃様、と傍らに立つ若い女が気遣わしげな表情を浮かべる。


「頼みの綱のそんはやる気は無い、りょうはあの通り。これだから男など信用できぬというもの」


 女は、深く深く、溜息を吐く。動きに合わせ、髪に挿した金の簪がしゃらりと涼やかな音を立てる。


「男の寵愛など、何の頼りにもならない。まして、愛など。信ずるに値するものではないというのに。そんなものに振り回されている翠羽も、愚かとしか言いようがないわ――本当に、頭の痛い」


 再度、女は息を吐いた。


「お前だけよ。ちゃんと自分の役目を理解して、本宮わたくしの思うように動いてくれるのは」

「畏れ入ります」


 聴く者に、穏やかな光に包まれているような感覚を抱かせる、柔らかな声が響く。


尚王殿下しょうおうでんかも、いずれ貴妃様の深いお心をご理解くださいます」

「……そうだといいのだけど」


 その時、扉の方から控えめに、貴妃様、と呼ばう声が響いた。


「刻限に御座います」


 女官が告げると、女は大儀そうに立ち上がった。


「さて。――颱のけだもの皇女とやらを見に行こうではないの」


――――――――――――――

【補足】

崦嵫(えんじ) 太陽が没するところと考えられていた山の名。

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