第二

“長旅の疲れをゆっくり癒やすように”


 皇太子結婚相手からの伝言に、皓月は腹から湧き上がる怒りを綺麗に覆い隠し、重たい花勝ヴェールの下で、皓月は、にっこりと微笑んだ。


 そして、殊更ゆっくりと、優しげに聞こえるような声を意識して出した。

 相手は、つい先程、婚儀すらすっぽかしてくれたのである、初夜など言うまでもないであろう。

 

「お心遣い、痛み入ります、とお伝えなさい。わたくしはもう休みます」


 幾分ほっとした様子で辞去する気配がして、皓月は美しく染められた爪を、祖国では見たことのない紅い花を散らした豪奢なしとねにめり込ませた。


 弦歌の声が、遠くかすかに響いていた。


 本来ならば、夫となる男の手によって取り払われる筈だった花勝を、大きく首を振って落とす。


 雪白の髪がこぼれ落ち、露わになった金緑の瞳には、爛々と炎が燃えて薄闇の中、仄青く光る。まるで戦いに臨むような、猛々しい眼差し。


 華やかな宴から遠く離れた薄暗い室内には、薫香が秘めやかに漂っている。雨上がりの森の中を歩くような清々しさと、しっとりとした深みのある上品な香りに、僅かに怒りを緩めた。浩では、霊廟や儀礼以外で香を焚くことはしないと聞いていたが。


 「風 かおり、瑤月ようげつ麗し」と称される颱の皇女への配慮であろうか。などと思い巡らせながら目を閉じ、ゆっくりと開いた。


 途端に瞳の中の炎は鳴りを潜める。

 何度も訓練したように、長い銀の睫毛に縁取られた瞳を伏し目がちに動かし、怒れる肩を落とす。すると、繊細で儚げな雰囲気になる。

 

 怒ってはいけない。鋭い牙を、見せてはいけない。

 

 ここはもう――世継ぎの皇子こうし――皇太子として、意のままに振る舞うことを許された故国では無いのだ。

 

 激しい修行によってできた剣だこを、人に見せるなと戒められてきたことを思い出して、しんだいに立てていた爪を、そっと袖の中に隠す。優美な襞をあしらった裾長の衣は、この国では、皇族のみが着用を許されるという、深いあお


 故国では、花嫁の衣装と言えば、雪の様な白だった。

 そこに、新郎の一族の女達が金銀の糸で精緻な刺繍を施してくれる。それを纏って婚礼を挙げるのが、故国の少女達の憧れだった。


 だが、代々女が皇位に即いてきた颱では、皇帝は結婚しない。


 故に、世継ぎと目された皓月は、よもや自分が婚礼を挙げる日が来ようとは思わなかった。


 しかし、今、こんなことを思い出すというのは、やはり、自分にも多少なりと憧れる心があったということだろうか。

 

 何を、今更――思わず自嘲しかけて、やり直す。無意識の内に、袖からのぞいた白い指先が、何かを求めるように宙を彷徨って、また、ぎゅっと握りしめられる。


 浩の人間の前で、研いだ爪の鋭さを見せつけてくれる訳にはいかない。――何となれば。


 彼らは己を“天賜星娥てんしせいが”の美称でもって賞賛たたえられる、妹の皦玲きょうれいだと思っているのだから。


 “抜山虎女ばつざんこじょ”――山をも引っこ抜く、猛虎の如き怪力女――などという物騒な称で畏れられる、姉の皓月などではなく。



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