第六十九
ぴしり、と空気が重みを帯び、忽ち霧が立ち込める。この感覚。黒宮と同じ、四霊封じだろうか。
ばたばたと、火災後の処理やなんやかやと、付近を行き来していた者達が倒れていく。
この霧、ただの霧ではないらしい。
「窈王」
朝焼けに煌めく海を思わせる、明るい青の髪を鎖骨の下辺りで緩く束ねて横に流し、目元に布を巻いた窈王は、口元に笑みを浮かべてゆったりと立っている。
「……遼……お前……一体、何をした……と、いう、の……?」
唸るような周貴妃の声に、窈王はぱっと表情を明るくした。
「母上! お久しゅうございます」
それは、心から母を慕う子、そのものだ。
しかし、母たる周貴妃は、
「……母上? 私は何か、母上のご機嫌を損ねるようなことをいたしましたか……?」
見えはせずとも、何かしら感じ取ったらしく、窈王は戸惑ったように首を傾げる。
「ですが、私が皇位を手に入れたら、兄上と同じように、私のことも、愛してくださいますよね? 母上」
「そなた如きが皇位を得ようなどと、世迷い言を……!! ……そなたがまさか、皇上を……?」
「皇上の暗殺未遂は、皇太子妃殿下の仕業というお話しではありませんか。霊木を枯らし、皇上の御身を損なったと」
軽やかに窈王は答える。
「霊木が枯れれば確かに、多少の影響はあるだろうけど、だからといって、皇上がお倒れになる程のことではない筈だよ、窈王。その程度のことはお前も知っているだろう」
「ふふ。兄上。けれど、その事実を正しく認識している方が、一体どれ程いましょう? ただの印象に踊らされて、颱の皇女を捕らえて、それで納得している者が」
「人は内に己を
「庾安?」
「瑞燿で追われていた少年です」
皓月が零すと、皇太子が丁寧な口調で応じる。
「――あの時の少年が?」
何が何だかよく分からない。だが、あの時の少年・庾安が何かしら窈王と繋がっていたのならば、あの場面で喬将軍が現れたのも、それに関連していたということか。
「あの場に喬将軍が居合わせたこと自体、不審でした。なれば、彼と少年の間に何らかの繋がりがあった可能性が高い。少年から探っていく方が早そうだと踏んだら、見えてくるものがありました」
皓月の考えを読んだように、皇太子が補足した。
「もうそこまで調べてしまったのですね」
「少年と、そなたが使っていた巫官――
巫祥というと、記憶違いでなければ、斟の儀の際、神水の確認をした巫官である。瀏客とともに、喬将軍に苦言を呈していたから、そこが繋がっているとも思われなかった。元々、巫官と武官はどこもあまり折り合いが良くない。戦に占が付きものであった古代から、決して繋がりは浅くはないのだが。寧ろ、繋がりが深いからこそ、かもしれない。
「――目は見えずとも、私は、ただ目が見えているだけの人々より、ずっと多くのものがみえております故。実際、皆さん、ちゃんと、私の思うように動いて下さいました」
第四皇子の窈王は、穏やかな人物として知られていた。人から慕われる一方で、侮られがちだとも。しかし、皓月は、以前彼と一度話したとき、その声に滲む、矜恃の高さを読み取っていた。穏やかそうに、控えめに振る舞っていたのも、警戒されぬよう、無害を装っていたのに違いない。そしてそれは、彼の如く矜恃の高い者にとっては、単に強く振る舞うより、ずっと忍耐のいることでもある。そのように振る舞うだけの、賢さと胆力のある人物を、侮ってはならない。――故に、窈王を探らせていた。が、めぼしいものは引っかからなかった。だが、窈王を警戒した皓月の直感は合っていたということだろう。
「尤も、――あの颱の皇女だけは、私も見誤っていたようです。瑞燿の一件もそうでしたが、まさか、秘薬の情報を記した紙片が皇女の手に渡るとは思いませんでした」
また、知らない情報が出てきた。一体何のことだ、と思いつつも“紙片”という言葉に引っかかる。
巫澂――皇太子が渡してきた書物に、紙片が挟まっていた。それに、毒の受け渡しについて書かれていた? 当時はただの白紙だったと思った。何か細工をしていたということか。知らぬ間に、今回の一件の核心部分に触れていたのだと気付いて、ひやりとした。この場合、引きが強かったのは、書物を渡された皓月なのか、数多ある書物からそれを選んできた皇太子か。
紙片を飛ばし、回収したその御苑の帰り道で、皓月は窈王に出くわした。ぶつかって取り落としたその書籍に、窈王は何かをうかがう様に触れていた。
奇妙な動作だと思った。あの時、窈王は皓月が問題の書籍を持っていることに気付いた、ということだろう。
「お黙り! 遜も、そなたも――揃いも揃って余計な事を!! 何のために、わたくしが、……これ、まで、…………何十年と耐え忍んだと――」
怒りも露わに燃え盛っていた瞳が、次第に力を失っていく。
「……母上? ああ……ちゃんとわたしが玉座を得られるか、ご心配なのですね。邪魔な皇太子殿下も、母上のご心配を顧みぬ兄上も、皆、殺して差し上げます。恭王がここにいらっしゃらないのは残念でしたが、あの方を葬ることは、このお二人に比べれば、難しいことではありませんから」
にっこり微笑んだ少年の頭上には、青い龍が姿を現していた。
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