第六十二

『――皓月』


 頭の中に、低く落ち着いた声が響く。が、応えることが出来なかった。酷く体が、重い。


『皓月。――死ぬつもりか?』


 もう一度、姿無き声が、その名を呼ぶ。返事があるという、確信に満ちた声音で。


「……つ、れい?」


 譫言うわごとのように、声の主の名を紡ぐ唇が、かすかに動く。――直後。びくりと、皓月の肩が震えた。


月靈げつれいっ……!!」


 月靈。必死に紡ぐその名は、皓月を守護する白虎の名。

 乾ききった唇から零れた声は、掠れひび割れていた。が、確かな強さを帯びてもいた。


『諦めるのか?』

「……そん、な、の……」


 力なく、床に投げ出していた両の腕を支えに、満身に力を込め、ゆっくりと身を起こす。


「御免、だっ……!!」


(――わたくしは、浩に来て、何も成していない。皇太子に会って、一発お見舞いしてやりたいし、言ってやりたいこともある。それに、わたくしをこんな目に遭わせた者達に、目に物見せてやらねば、到底気が済まぬ――)


 その瞳が、力を孕んで黄金に底光りする。クスリ、満足げに笑う声が、頭に響く。


『それでこそ、皓月』


 随分、久しぶりに自分の名前を呼ばれた気がした。

 同時に、失われていた力が、完全に身に戻ってきた。


 ――己は颱のみならず、大陸に名を轟かせた、

 仮令、人にそう呼ばれる名を失ったとしても。皓月自身が、己たるを忘れなければ良いこと。


「―――――ああ―――――……」


 歓喜と、確かな力を含んだ声が、その唇から放たれる。


 四霊封じの禁術が解けたのである。火事で建物が崩れた為であろう。


 皓月があの産婆の怒りを煽るような言い方をしたのも、その、僅かな可能性に賭けたからだった。かなり危なかったが。


『ならば、立て』

「そなたに――言われ、なく、とも!!」


 気合いとともに突き出した拳が、己に覆い被さったそれを砕く。皓月は立ち上がった。頬に風を感じる。


「行こう、月靈」

『――承知した』


 目の前に立ち塞がる壁を忽ちに打ち砕き、紅く燃える夜へ、飛び出した。


   * * *


 夜。禁霊宮から上がった炎は、忽ち燃え広がり、近辺のあらゆるものを焼き、空を紅く染めた。


「早く水を!! 水はまだか?!」

「最近の水不足で――」


 交錯する怒号と悲鳴、泣き声に、場は混沌としていた。このまま燃え広がれば、いずれ皇宮全体が日に包まれるだろう。それだけの勢いだった。禁霊宮に幽閉された、颱の皇女の安否を気にするだけの余裕のある者は、その場にはいない。


 その時、生き物のように周囲を舐め、飲み込まんとする炎熱を砕き、一匹の獣が躍り出た。


 怒りを映し、黄金に輝く瞳。激しい炎風に逆立つ毛は雪のように白く。しなやかな体躯に漲るような神力を秘めたその姿。


 ――邪をしりぞけ、災禍を払い、悪を懲らしめ善を高揚し、財を呼び込み、富を成すとされる、白き百獣の王。


 颱の皇女は、白虎の守護を持っている。――その性は、猛々しい戦神。

 一睨みでもされようものなら、只人は途端にすくみ上がり、一切の抵抗を諦めるだろう。


 それ程の、絶対的なる威容。


 その背に騎乗する人は、それに比して、余りに小さい。しかしながら、確かな存在感を放っていた。


 火中にあった為であろう。幽囚の身を示す白い衣は所々煤けて、血も滲んでいたが、それでも彼女の持つ気品や美しさを損ねることは出来ない。金緑の瞳は、白虎と同様、黄金に煌めき人々を見下ろす。白銀の髪は炎の光を受け、朱を帯びながら闇に翻る。


 皇太子妃たる颱の皇女。人は彼女を“天賜娥”と称える。

 だが、質素な衣ながら、全身から放たれる、絢爛たる存在感は寧ろ、夜を支配するを思わせた。

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