第三十五
* * *
皇太子妃に、今日も琴の演奏を断られた尚王・
彼の言葉に、毎回完璧な微笑みで応じる皇太子妃だが、実際の所は苦笑いに近いのだということは、無論分かっている。完璧な美しい笑みの裏に、別の顔を持っていることも、彼は見抜いていた。
雪原の中に咲く、梅花のごとき凜然たる美しさ、清らかさ。一方で梅は種子の中に毒を含んでもいる。そんな、二面性。あの美しい微笑みの下に、一体、どんな姿を隠しているのか――。本当のところを、うっすらと察してもいる。その上でなお知りたいとも、やはり、神秘のままでいて欲しい、などとも思う。
そして、そんな所が、似ている、と思う。
遜が敬愛してやまない“あの人”に。
楽の才は勿論のこと、似ているからこそなおのこと、惹かれてしまうのであろう。
無論、あくまでも人として。
背に、追いかけてくるような琴の音が聞こえてきて、おやと耳を澄ませた。
何か、焦がれるような、痛切な思いを想起させる、音。
あんな素晴らしい琴の音を独り占めにしている兄皇子がうらやましい。などと、ふざけ半分、本気半分で独り
その旋律に、推恩は聞き覚えがあった。
同じ曲を、かつて、一度だけ聞いたことがある。
(――あれは確か――)
“……お前、この曲を知っているか?”
あの時、あの人は遜に、そう尋ねてきたのだ。
そんなことを思い出していた遜の耳に届く琴の音が、僅かに揺らぐ。
直後。
早春の雪解けを思わす、キリリとした笛子の音が響き渡った。
「――!?」
夜にひっそりと、どこか遠慮している風情で奏でているそれとは違う。
天地を貫く
その音が、琴の音を追いかけていったかと思えば、ぴたりと重なる。
知らず、遜は口の端を上げていた。
「――これは一体、どう言う心境の変化ですか?」
驚きに詰めいていた息を吐き出しながら一緒に
『――推恩』
低く落ち着いた声に字を呼ばれて、遜は我に返った。既に琴の音も、笛の音もやんでいた。
声の方へと目を転じやれば、池から一匹の鯉が顔を出していた。
彼は破顔した。
「まさか、お声を掛けてくださるとは」
嬉々として言う。餌を求める様に鯉が口を開く。
『――話がある』
声は、間違いなくその鯉から発せられていた。
鱗ある者は全て、龍の眷属。こういう藝当も、青龍の守護を持つ者ならお手の物である。
「お呼びとあらば、すぐにお伺いしましょう」
言うや否や、尚王の輪郭がざっと崩れる。
たった今まで、彼が立っていたところには、水溜まりが一つ。
だがそれも、見る間に土の中へ吸い込まれて消えた。
ちゃぷん、と。
後にはただ、鯉の跳ねる音が響いて、消えた。
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