紀第十 花に譬ふれど

第三十六

「ここの所、尚王殿下がよくこちらに出入りされているようですね」


 いつもの講義の始めだった。軽い雑談の中で、巫澂ふちょうが言った。


「はい。先日皇宮の苑でお会いしまして」


 「御苑ですか?」と、巫澂がわずかに首を傾げる。冠から垂れた玉が琳琅りんろうたる音を零す。


「はい。見たことの無い珍らかな草花を多く見かけました。巫澂は見たことがありますか?」

「いえ。――残念ながら、御苑は皇族の方しか入れない事になっておりますので」


 宮中には東西南北に趣向の異なる庭園がある。後宮には後宮の庭園があり、後宮から御苑までは距離がある。故に、訪れる者はごく僅かだ。だから恭王と尚王妃も密会に使っていたのであろう。


「皇宮の他の庭園では、花ごとに定められた世話人が花に水を打つ様子が見られます。しかし、御苑だけは、皇宮の園丁も、特別に選ばれた者しか入れません。梅の世話人である“仕梅隠士しばいいんし”は別ですが」

「――花ごとに、ですか?」

「はい。『瓶史へいし』なる書物に、花ごとに世話をするに相応しい人物についての記載があります。例えば、『梅にそそぐは隠士にふさわしく、海棠に浴ぐは韻致の雅やかなる客に宜しく、牡丹・芍薬に浴ぐは靚妝美しく装ったの妙女に宜しく、ざくろに浴ぐは艶色のあでやかな婢に宜しく、木樨もくせいに浴ぐは清慧兒賢く美しい少年に宜しい』と。」

「花を愛すればこそ、でしょうね。――“皇宮の梅花に仕える隠士”とは不思議な響きです」

「仕梅隠士は、大抵退官した臣下で、特に功績があり、優れた人格を備えていると認められた方に贈られる名誉職のようなものです。梅の世話をするという名目で、御苑に入る資格が与えられています。とはいえ、梅の場合、余程のことでなければ、自然の降雨に任せれば良いので、毎日通う必要もございません」


 つまりは、特別な寵臣に、それまでの貢献に対する労いの意味を込めて与えられる特権ということか。


「――東宮の庭にも、それぞれに決まった方がいらっしゃるのですか?」

「いえ。東宮の園丁はお一人だけです」


 皓月はやはり、と軽く頷く。浩では側仕えの者以外、僕人は主の前に姿を現さない。故に、皓月は東宮の園丁を見かけたことはない。皇太子が近づけないため、そもそも東宮は人手が多くない。東宮所属の官も、殆ど東宮にいない。兼務が多いのと、来ても主不在の臨華殿で空しく過ごす羽目になるからだ。

 東宮の最高官・太子太傅たいしたいふに至っては、任官されて以来、一度も出仕していないという。在野の高士というが。


「御苑ではどんな花を御覧になりましたか」

「深い青色の花がありました。このような」


 皓月は筆を取り、あのときに見た花を描いてみる。


「……これは……恐らく、大陸の東部にのみ産する、雨師香うしこうという花ですね。これが咲くと、雨季が近いといわれています。名の通り、非常に薫り高い花としても知られます」

「雨師香」

「はい。大ぶりで、単体でも見栄えがしますので、室内にも飾られます。……ちょうど天気も宜しゅうございますので、本日は外へ出て、浩における花の文化について、いくつかお話を致しましょうか」


 立ち上がった巫澂に言われ、二人は昇龍宮と玉泉宮の間にある庭へと出てきた。


「颱ではよく人に花を贈ると聞きますが、浩でも贈り物の一つとして、花は大変喜ばれます。『その姿は徳をかたどり、色は雑ぜて他を殺さず、香りは周囲を化するを示し、清廉なるもの』と認識されています。文に添えたり、或いは切り取って束にしたり、また鉢ごと贈ったりして、そこに言外の意味を込めることは、大陸の東西を問わず、よく行われる方法ですね」


 淀みない声は滔々と流れゆく水を思わせる。


「ただ、浩と颱では、花の意味に若干の違いがある場合がございますので、注意が必要です。例えば颱でもよく見る白雪香はくせつこうは、可憐な美を象徴する花として好まれますが、却って浩では、その妖しいまでの甘さや美しさから、百損黄ひゃくそんこうなどという異称で呼ばれることもございます。また、海榴かいりゅうは、ぼとりと花の落ちる様が、首の落ちる様子にも例えられて、軍門の方には贈らぬのが礼儀とされています」


 思った以上に、颱と浩とでは、発想の仕方が違う。

 白雪香にしてもそうだが、海榴などは、その花の落ちる様こそが潔い生き様を示しているとして颱では喜ばれるのだ。思えば、これまで敵国と認識していた浩の人間に、花を贈るという発想など皆無であった。故に、そういった細かい意味の違いに配慮する必要性も感じていなかったが、花をより丁重に扱う浩では必須の教養だろう。

 彼は、園内の花を丁寧に説明して、一つとして言いよどむことは無かった。


「……本当に、巫澂は博識ですね……」

「こちらをお読みになれば、より理解が深まるかと」


 使いの者から書物を受け取り、皓月に示す。これまた、中々の厚さである。もしや、と巫澂を見遣る。


「ご高察の通り、主要な部分は頭に入れていただきます」


 爽やかにそう言い切った巫澂に、皓月は天を仰ぎたくなった。――やはり。やはりか。

 こういう面で言えば、穏やかな割に巫澂は結構、厳しい。ごくさらりと事も無げに、「これくらい当然」という風に言われてしまうと、皓月の性格上、「無理」とは口が裂けても言えない。

 そして、なんとなく、彼はそういう皓月の気性を見抜いているような気がする。


「それと、こちらをどうぞ」


 言って、皓月の掌の上に巫澂が差し出したのは、これもやはり見たことの無い、濃い紫色の花だった。玉蘭に似た香り。一体どこから持ってきたのか、大ぶりながら、すっとした姿が凜として美しい。


「皇太子妃殿下の御髪おぐしに、きっと映えるでしょう」


 連なる珠の間から、口の端を品良く上げて微笑んだのが、僅かに見えた。

 意図を察して、その花を見下ろす。


「この花は、なんというのです」

仙紫客せんしかくです」


 恐る恐る、皓月が髪に挿してみると、失礼いたします、と言って、軽く直してくれた。

 前にも思ったが、髪に花を飾るなんて、皓月の柄ではない。

 が、浩の女人は老若問わず、簪代わりに、或いは簪と合わせて挿している姿を見かける。逆に金や銀の装飾は少なめだ。


「ああ、やはり。よくお似合いです」


 そういう言葉を、さらりと嫌味無く言えてしまえるのは、彼だからなのか、巫官特有の雰囲気故か。


「――掬花きっかとは、何です」


――――――――――――――――

【補足】花の名前について

本話に登場する花の名は、一部創作。一部実在するものです。

「白雪香」は、梨の花。「百損黄」はその別名です。

「海榴」は椿。


一方、「雨師香」「仙紫客」「千秋紅」などは創作です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る