第三十四
「
「申し訳ございません、尚王殿下」
尚王の懇願する声に、皓月は苦笑で答えた。
今日も今日とて、ふらりと尚王は皇太子妃殿にやってきた。そして、皓月に琴を弾くようせがんだ。いつも思うのだが、彼は、政務は良いのだろうか。彼とて王号を持つからには、やることはあるはずだが。
「一曲だけでも……」
「わたくしは良いですから、是非、尚王殿下の琴をお聴かせください」
「……今日もダメかぁ……」
別に、一曲弾くくらい良いだろうと思わないでもない。だが、何故か、余人に対して弾く気にならないのだ。それもあって、初日を除いて、皇太子に琴を献じる時には、皓月は人を近くに置いていない。
肩を落としてまた、「それでは」と言って、とぼとぼ帰っていく。その姿がいかにも意気消沈、という感じなので、こっそり笑ってしまった。
お茶をいただいている間に用意させた琴を抱えて、皓月はいつもの如く
今日は、何を弾こうか。と少し考え込む。皓月がこうして琴を弾き始めて、それなりに経った。
一方的にひたすら弾いているのではあるが、皇太子はどう思っているのだろう。
否、その前に、果たして、聞こえているのか。
何となく、水上に立つ玉鱗閣を見遣る。皇太子のところでは、確かに様々な書状の決裁がなされ、政務は滞り無く回ってはいるようである。一方で、死んだらしいという話も、もっともらしく伝わってくる。実は冥婚でしたなんて、笑えない。しかし、この間の巫澂の話もある。
首を振って、浮かんだ雑念を追い出す。今は琴に集中だ。
目を閉じ、風の音に耳を澄ましていれば、心は自然と静まる。
その心のまま、思い浮かんだ旋律を弾じた。
ふと、微かな辟邪香の香りがした。その香りに、ほんの一瞬、巫澂の姿が過って、僅かに音が乱れた。
その時である。
突如、高らかに笛の音が響いた。
その音は、夜毎に響く、あの笛子の音に相違なかった。
格調高く、凜然とした緊張感を持ちながら、その響きは包み込むように柔らかい。その音が、皓月の奏でる琴の音にすっと寄り沿う。
すると、二つの異なる楽の生み出す空気の震えが合して、何かが、身の内を駆け巡るような気がした。
「――……」
一曲を終えてなお、楽の音に引き出された昂揚感で頬の火照りが冷めないのを感じながら、皓月は顔を上げた。
玉鱗閣の楼台。いつからそこにいたのか、すらりとした影がある。
だが、顔かたちまでは、はっきりとは見えない。
逆光で朧げな輪郭を、目を細めて見上げる。その人は、笛子を構えていた腕を下ろし、背を向けた。
その肩に羽織った衣は――藍色。
皓月は、目を瞠った。まさか。
「……皇太子……?」
零した声が、掠れる。
その傍に、一人の巫官が近づく。背格好からするに、巫澂だと思われた。藍衣の男は、巫官に向かって頷くと、中へと入っていってしまった。
一方、巫官は、水榭にいる皓月に気付いたのだろう。こちらに向かって遙拝してきた。その所作を見て、確信した。矢張り巫澂である。
皓月もまた、軽く頷き返すと、皇太子と思しき男の後を追って、玉鱗閣の中へと消えた。息を詰めていた皓月は、それでやっと息を吐く。
「……何故……」
一陣の風が、皓月の声を攫っていった。
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