第三十三

 ぐしゃり、紙の潰れる音が響いて、床に巻物が転がる。


 黒みを帯びた青い色の髪をすっきりと結い上げて金の冠を被り、優雅な裾長の衣を纏う姿。立ち姿を見ただけなら、いかにも文質彬彬たる君子といった体ではある。

 口から悪態を吐き、失望に眉を寄せながらも、その秀麗な顔立ちは、率直に言ってかなり人目を引く容貌だと言って良かろう。

 ばさりと音を立てて扇を開き、怒りや失望などに燃えたぎる感情を落ち着けようと風を送る。


「殿下。お茶を用意させましたわ。どうぞお疲れを癒してくださいまし」


 恭王――水逾すい・ゆは、入ってきた己の妃にチラリと一瞥をくれる。不機嫌な為か返事はない。官女を下げて、恭王妃・秀明しゅうめいは、そっと微笑みかけた。


 恭王の苛立ちの理由に、秀明は心当たりがあった。尚王妃に無視をされているか、冷たくあしらわれたか。どうせそんなところだろう。気まぐれな女である。そして、恭王はそれにいつも振り回されている。


「……あら、落ちておりましてよ」

「触れるな!」


 床に放り出された書状を拾おうした秀明を、鋭く恭王が静止した。

 それから、過剰に反応し過ぎたことを取り繕うように、にこりと笑った。


「すまない。それは大事な書状なのでね。つい声を荒げてしまった」

「……あの方からの文ですか」

「そなたには関係のないことだ」

「されど……口さがない者達は頻りに噂をしています。殿下になにかあってはと、心配なのです」


 言えば、恭王は扇で口元を覆い、眉を寄せた。


「そなたが心配するようなことはない」

「……承知致しました」


 下がれ、と身振りで示した恭王に礼をして秀明は堂を出た。自室へと戻る廊を歩きながら、ぐっと唇を噛みしめる。


 人目の少ない皇宮の苑で、彼らがどれ程逢瀬を繰り返してきたか。それを知らぬ秀明ではない。かつて妻にと望み、結局果たせなかった尚王妃・翠羽を、恭王は神女の様に称えている。


 尚王と尚王妃との縁組みは、母である周貴妃の意向が大きい。


 尚王妃の故国は、浩の属国の中でも軍事力が高く、浩とて無視の出来ない存在だ。その王族である尚王妃・翠羽が恭王の妃となれば、実の息子である尚王が皇太子となる上での脅威になる。そう周貴妃が考えたであろうことは想像に容易い。


 だが、恭王からすれば、幼い頃から何度となく自身や母の命を危険にさらしてきた、不倶戴天の敵である周貴妃に、最愛の人と引き裂かれたということになる。


 その事実が、余計に彼を尚王妃の元へと駆り立てているのだろう。そう言う意味で、尚王妃は彼にとって特別な存在には違いない。

 

 だが、彼の妃は、秀明じぶんなのだ。たとえ“妃”とも“愛妃”とも、まして呼び名でもなく、――ただ「そなた」としか呼ばれなくとも。


 自分こそ一番とでも言わんばかりの、尚王妃のあの顔。恭王が最も心を傾けているのは自分だと、秀明を嘲っているかのような――その尚王妃とて、夫の尚王からは心を向けられてはおるまいに。


 だから、尚王が皇太子妃に興味を示し、頻りに通い詰めているという話を聴いたときには、大層胸がすいた。あのすました表情の下で、尚王妃がどれ程の屈辱を耐え忍んでいるかを思うと、愉快すぎて思わず、はしたなくも、声を上げて笑ってしまった。まさに因果応報、自業自得である。


 だが、これだけでは終わらすまい。是非ともあの女には、不貞の報いを受けてもらわねば。


 そう思い、恭王と尚王妃が入っていったところを見計らって、尚王を苑中へと促した。


 尚王は、決して二人のことを表沙汰にはすまい。それも秀明は計算の上だ。けれども、尚王に己の不義が知れたとわかれば、必ず尚王妃は動揺するだろう。それで十分だ。尚王妃の器なら、勝手に自滅してくれるだろう。それでもなお二人がやめなければ、……その時こそ、全ての情けを捨て、切り札を使おう。が、この札は、使えば恭王も、延いては自分も、ただでは済まない。


(けれども、あの様子では……心配はいらないでしょう)


 皇太子妃まであの場に居たのは予想外だったが、思った以上に、上手くことは運んでいる。


 尚王妃の考えが、秀明には手に取るように分かる。


 きっとあの女は、皇太子妃への恨みを募らせ、その矛先を彼女に向けるだろう。秀明が、尚王妃に怒りをぶつけざるを得ないのと同じように。だが、皇太子妃を害することは容易ではない。返り討ちにされれば重畳。うまくいったところで、皇太子妃を殺せば、颱の女帝も、“猛虎”と恐れられる姉皇太女も黙ってはいまい。秀明が手を下すまでも無く、彼女達が始末してくれるだろう。


(だから、その時まで、――耐えるのよ)


 秀明は、そう自らに言い聞かせるのだった。


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