紀第九 水上閣中の人
第三十二
尚王妃・
それなのに、刻限を過ぎても、報告は来ない。
よもや、失敗したか。
恭王の文を保管していた文箱から、微かにした香り。
先日の品茗会の時、皇太子妃が使っていた香と同じだった。故に、皇太子妃の差し金だと思った。だが、そんなわかりやすい手がかりを、普通、わざわざ残してなどいくだろうか。またそもそも、そんなことをして、皇太子妃にどんな利点があるのか。少し考えれば分かるような事だったが、嫉妬と我が身の破滅の予感に平静を失っている翠羽には、そのようなことを考える心の余裕などない。
“
対する者を蕩かす程に甘やか、それでいて風のように軽やかに通り抜けて行く。飽かぬ故に、却って人を魅きつけてやまない。――故に“
浩と双璧をなす颱の皇女という、この上無く高貴な生まれ。何気ない挙措の端々に滲む気品。玉の如き涼やかな声。口では“蛮族の姫”などと罵りながら――その人を前にすれば、誰もが強烈に魅了されずにはおれない。司水の任を務めればその効はたちどころに
そしてなにより、尚王すら唸らせる音曲の才。
何一つ、翠羽には及びもつかぬ。一体どうやって、これまで颱の女帝や姉皇太女の陰にその才華を潜めていられたのであろう。
人に探らせれば、尚王は日々、その人の元へ行っては親しく言葉を交わしているのだという。口さがない者達は、尚王が皇太子妃に横恋慕しているなどと、面白おかしく噂をしているらしい。屈辱だ。
一方、皇太子妃が尚王の態度をどのように受け取っているのか、など。知りたくもない。
当の尚王は、あれからどういうわけか、翠羽の所に度々やってくるようになった。
そのこと自体は良い。だが、にこやかに話してくるのが全て、皇太子妃のこととなれば話は別だ。
罰、なのだろうか。
尚王の妃でありながら、恭王と逢瀬を重ねた自分への。
思えば、ぞっとした。それでも、心に湧き上がる嫉妬の念はどうしようもない。
この自分が、こんな感情に駆られる日が来ようとは――。
思えば思う程、自分の中に、どす黒い澱のようなものが溜まっていくような気がする。
こんな自分は、……嫌だ――。
自業自得。そんなことは分かっている。道理に全く合わぬことをしている、自覚もあった。
だが、混沌を極める翠羽には、己が心の矛先を誰か――皇太子妃へ――向ける、それしかないのだった。
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