紀第十八 糸を手繰れば
第六十七
「やはり、妃は……全てお気づきだったのですね」
「わたくしの視覚はごまかせても、嗅覚はごまかせません」
「そのようです」
皇太子がそう零した直後、にっこり微笑んだ皓月は、金緑の瞳をくわっと見開き、動いた。
高く、頬を張る音が響いた。
「……っ!! ……少々、覚悟はしておりましたが……」
頬を押さえ、皇太子は苦笑した。思った以上の威力だったらしい。
それでも、途中で拳から平手に変えたのだから、そこは感謝して欲しいくらいだ。皓月が本気でやったら、常人なら
青龍の守護を持つ皇太子にどれくらい有効かは知れないが。
「皇太子殿下が昏礼の諸々をすっぽかした為にわたくしがかいた恥は、これで許して差し上げます」
「……ありがとうございます……」
ギッと睨み付けて言うと、彼は少し悄然とした風情でそう言い、また己の頬をさすった。
煤を含んだ風が、さっと背を打ち、皓月の肩が小さく震える。先程の豪雨で、全身すっかりびしょ濡れだった。水を吸った衣が重たく冷たい。
そう思っていたら、不意に暖かくなった。皇太子が、己の肩に掛けていた
妙に気恥ずかしい気がして、皓月は面を伏せて左右に目を泳がせた。が、僅かに木蘭の甘さを含んだ、例の辟邪香の香りが鼻腔に触れると、無意識のうちに、息を吐いていた。
「……多少はましでしょう。申し訳ございません。あれは、加減ができないので……」
あれ、とは先程の龍だろうか、そう思いながら、ありがとうございます、と礼を言う。
「――貴女には、今の私は、どう見えていらっしゃいますか?」
唐突な問いに、皓月は首を傾げた。どういう返答を期待した問いなのだろうか。
「質問を変えます。――貴女には、私の目や髪は、何色に見えていらっしゃいますか?」
「銀色に見えます」
皓月は、上背のある皇太子を見上げ、その目や髪を、しげしげと眺めて言う。
「そうですか……」
言うと、彼は黙り込んだ。
青龍、と言うくらいなのだから、皇太子を守護する龍も、青色の体躯をしている筈だ。それに、青龍の守護を持つことの出来る者も、青い髪に、青い瞳をしている筈。だが、あの龍は、皓月の見間違いでなければ、全身銀色だった。銀の鱗に銀の瞳、銀の爪の。そして、皓月の前に立つ皇太子も、銀の髪をしている。
思えば、“
そして、あの産婆の幽鬼が口走っていた言葉。
“銀の髪に、銀の瞳、銀の爪”――と。目の前の皇太子の様に。
また、こうも言っていた。
“異貌の女。不吉な女!! あの女の産婆など引き受けたせいで……!!″
恐らく、産婆の言う「あの女」とは亡き皇后。皇后もまた、皇太子同様、銀の髪、銀の瞳、銀の爪を持っていたということだろう。だが、――「不吉」とは。引きこもりと称される程に皇太子が人前に姿を現さなかったのは、そこに理由があるのだろう。
では何故、今こうして姿を現したのだろうか。
周囲を見回せば、火災の事後処理のため、盛んに行き交う人々は、誰もこちらを見ていない。というか、存在自体、気付いていないようである。
「――私が持つ青龍の守護には、視覚、或いは視覚を通した認識に働きかける力があります。先程の私の龍も、私の姿も、今は貴女の姿も、他の方には見えてはいません。ただ、私の力に耐性の有る方には通用しません。まず他の青龍の守護を持つ者には効きませんし。――そうで無くとも、貴女も、私の本来の姿が見えているのでしょう」
それで先程の質問か、と合点がいった。
“浩人は目が良い分、己の見たものが全てだと思いがちです。見た目など、いくらでも偽れるのですが”
いつぞや、そんなことも言っていた。
「見た目など、いくらでも偽れる」とは、皇太子自身の事を言っていたのだ。あのときは、少し唐突に感じたものだったが、当時の皓月は、自分のことを言い当てられたのかと焦っていたため、そのときに感じた感覚を取りこぼしたのだ。
「それで、巫澂は……」
皇太子の背後に佇む巫官に、漸く気付く。
「以前に、本人からお聞き及びでしょう。我が乳兄弟は、嘘が苦手な上、妃とのお話に緊張したようです」
皇太子の居所に皓月が乗り込んだ晩の話だ。皓月が皇太子宮に乗り込んだことを知った時の狼狽え方に不審を覚えた。
皓月の前に現れた“巫澂”と、姿を現さぬ皇太子が同一人物ではないかと薄々感じ始めたのは、あの一件だった。
否、その前にも違和感を覚えたことは何度かあった。
斟の儀の時の巫澂である。
あのとき、皓月は彼に尋ねた。「香を変えたのか」と。それに対し、巫澂は「否」と答えた。
確かに、同じ香ではあったのだ。
纏う人が変われば、香り方も異なるもの。
つまり、斟の儀と皇太子宮での巫澂は、本物の巫澂。
すると、それ以外の“巫澂”が、皇太子だったのだろう。
旣魄と名乗り、瑞燿の街で彼が剣を振るうのを見て、太刀筋が斟の儀で見た羽厳と同じだとも気付いた。ほんの僅かな動きからも窺えた、その非凡な腕前は、おいそれとその辺に転がって居るようなものでは無い。
「では、斟の儀で衛官の羽厳になりすましたのは」
「神明に対し、偽りの名を使う訳には参りません。儀式は本物の巫澂が行う必要がありました。私にも多少の心得はございますが、本物の巫澂――
斟の儀の際、一度、羽厳に「皇太子妃殿下」と呼ばれて、巫澂に呼ばれたかと思ったこともあった。当時は、聞き間違いかと思ったのだが。
極端に無口らしい羽厳が、声を発したのを聴いたのは、あの時だけだ。
基本的に羽厳が護衛の任に当たっていたのは夜で、昼に担当していた羽騎に対して、殆ど姿を見かけなかった。
斟の儀と、皇太子宮で出くわした巫澂が、本物の巫澂である瀏客という人物だというのなら、皓月がすぐにそうと気付かなかった原因。それは――、
「臣
跪いて、
皇太子と瀏客、声がそっくりなのである。
淀みのない流水を思わせる心地の良い響きの声。 もともと似ているのか、一方がもう一方の声真似をしているのかは分からない。が、今聞き比べてみると、皇太子の方が悠然とした風情なのに対し、瀏客の方はややきびきびとして怜悧な官人といった雰囲気だ。例の巫官の装束と、同じ人物であるという思い込みが、僅かな違和感を覆い隠していた。
「そうまでして、皇太子殿下御自ら異国の皇女の監視を?」
「……それは、」
途端、皇太子は視線を泳がせた。
「……私の周囲は常に危険がありました。亡き
「……それで“千秋紅”を掬花にお贈り下さったのですか?」
星形の愛らしい花をつける千秋紅。
諸臣をざわつかせ、王妃達を騒がせ、皓月を困惑させた、その花の持つ意味。
――書物によれば、“あなたを守ります”だ。
「……姿も見せぬ私にお怒りだったでしょう。せめて、貴女を軽んじるつもりはないということをお伝えしようとしたのです。私や私の周囲を陥れようと狙う者たちへの牽制の意味もありましたが」
確かに、敵の立場から見れば「妃に手出ししたら容赦しない」という、明確で強烈な脅しにも取れる。
「黒宮に囚われたと知った時には、本当に焦ったのです。こうならないために、貴女にお渡ししていたものがあったはずですが」
急にじとりと見下ろしてきた銀の視線に、今度は皓月が視線を彷徨わせた。
――とても言えない。今の今まで、すっかり忘れていた、とは。
「ええっと。使う場面はよく考えるようにと仰っていたので……」
「皇帝陛下暗殺の首謀者という嫌疑を受けるなどという状況を越える危機が、頻繁に訪れるとお思いで?」
「あ、あの中には、一体何が入っていたのです?」
小さく皇太子は溜息を吐いて、懐から例の錦の袋を取り出した。
「常にお持ち下さいと申し上げた筈ですが……何故でしょう。几案の上に置きっぱなしだったのは」
苦笑いで受け取り、中身を取り出してみる。
出てきたのは、翡翠の玉牌。
刻まれた文字を見て、まさかと瞠目する。
これは。
「――こ、皇太子令っ!? 皇太子の命を発することのできる令牌ではありませんか!? ……何故、」
そうですね、と促す皇太子に裏を返すように言われて見れば、小さく文言が刻まれている。
曰く、「この令牌の所持者は、如何なる罪・疑惑においても、天子の
驚きに次ぐ驚きで、絶句した皓月は、手から滑り落ちかけた令牌を、狼狽えながら中空で掴み取る。
もし中身が皇太子令だと始めから知っていれば、流石にそんな扱いはしなかった。だが、やはり、持ち歩くのには躊躇しただろう。
「悪用されたら、などとお考えにならなかったのですか?」
「なさるのですか?」
尋ねる口調だったが、微塵もそれを疑っていないような表情。
「妃はそれの持つ重みをよく理解していらっしゃる。ですから、なさらないでしょう」
「――兎に角、お返しします!!」
言葉に詰まって、なんとかそれだけを言う。名を偽り、皇太子や人々を偽っている皓月が持っていて良いものでは無い。
確かに、名前も身分も色々偽っていたのは、向こうも同じではある。だが、皓月の偽りは、それとは比較にならない。こうして今、皇太子が入れ替わりの真相を明るみにしたところで、大した問題にはならない。皓月が同じように、妹との入れ替わりを詳らかにできるかといえば、それは不可だ。
皓月の後ろめたさを知らぬ皇太子は、穏やかに、はい、と応じて受け取り、令牌をしまった。
「心配は致しましたが、……東宮でも、瑞燿でも、此度の一件も。妃は毎回、私の懸念や予想を軽く越えていらっしゃいます。――お体は、大丈夫ですか?」
先程も訊いてきた筈なのに、また尋ねてくる。全身が痛いし、碌なものを食べていないから空腹だし、全身もびしょ濡れだし、大丈夫かと言われれば、正直大丈夫ではない。
が、妙な意地を発揮した皓月は、平気です、と即答する。
月虹を宿す瞳が、真偽を確かめるようにこちらを見てくるので、居たたまれなくなった皓月は、思わず目を逸らしてしまった。
「皇太子殿下、連れて参りました」
尚王の声がして、振り返ると、周貴妃と尚王妃の姿があった。二人とも、周りを兵に取り囲まれている。その中には、皇太子の衛官、羽騎と(恐らく本物の)羽厳の姿もある。
「ご苦労」
柔らかな表情から一転、冷徹とも言える無表情で二人の女を一瞥し、皇太子は尚王に頷く。
「……
周貴妃の目が、怒りに燃えている。一方、尚王妃は、蒼白な顔色であらぬ方を見、頻りに何事かを呟いている。どう見ても、尋常の様子ではない。
「貴妃様が御覧の通りですが、お分かりになりませんか」
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