第六十六

「“顔を合わせることなど無い”――って仰ってたの、どなたでしたっけねえ? 皇太子で~んか♪」

「……楽しそうだな、羽騎」


 旣魄の声真似をして笑う羽騎を、旣魄は胡乱げに見返す。


「楽しそうも何も――こんな面白すぎることないですって!!」


 ギャハギャハと笑い転げる羽騎の後頭部を、彼の兄ではないが、張り倒してやりたくなった。


「いや、巫澂様になりすまして案外自由に動き回っているのはまあ、いつものことですけど」


 巫官の装束は、銀髪に、銀の瞳、銀の爪などという、自身の特徴的過ぎる容貌を隠したい旣魄には、大変便利だった。

 皇太子の相談役たる“太子師巫”の役職にある巫澂が出入りできる範囲は非常に広い。皇太子になって以来、皇帝から散々政務の数々をこなすに当たっては、随分役に立った。

 故に、旣魄と瀏客が入れ替わるということは、以前から頻繁にしていたのだ。


 旣魄は確かに、人前に一切その姿を現さない、という意味では“引きこもり”と称されても仕方が無いとは言えた。

 だが実の所、ここ数年は、皇帝がやった風に見せて、ほぼ旣魄が実務を執っていたというのは、押しつけた当の皇帝と、押しつけられた旣魄と、それを見ていた、巫澂のみぞ知ることである。

 

 その中で、全盛期の冴えが失われた周宰相とその一派を挫くための準備も少しずつ固めて行くことができた。


 そんな皇帝が、旣魄にギリギリまで知らせなかったのが、颱の皇女との婚姻だった。しかも、颱の女帝は驚くほどすんなり受け容れた。両帝は余人の窺い知れぬ内に予め示し合わせていたのではないかと思われた。しかし、その所以は旣魄にすら理解できなかった。尋ねたところで答えは得られそうにも無かった。

 

「颱の皇女殿下への講義、お忙し~い皇太子殿下が御自ら行う必要、ないですよね?」

「……」

「それも、結構、楽しんでますよね? 、無理しちゃって~」


 堪えきれない、とばかりに羽騎がまた、腹を抱えて吹き出す。


「おまけに、はじめの数日で、必要な教育の殆どは終わっていらっしゃいますしね」


 黙ってやり取りを聴いていた瀏客巫澂が、しれっと余計な一言を漏らす。


「皇太子殿下は、妃殿下にどこまでお教えになるおつもりで? 学者になさるおつもりですか? 浩の親王の方々ですら、あそこまで身に付けている方はそう多くはいらっしゃらないでしょうに」


 旣魄は、気まずげに視線を逸らした。


 始めは、皇女の様子を窺いつつ、浩の皇后や公主、妃嬪に施される程度までで終えるつもりだった。が、少し話をしただけで、妃の知識は、異国人が故の抜けは多少あったものの、政治、歴史、思想、文学などを始めとする学問の諸領域に関する知識は、並み居る学者にも引けを取らないと知れた。

 寧ろ、なまじ浩国こそが学問・文化の中心と奢り、偏った見方に陥っている者達よりも優れた見識を備えていた。


 旣魄自身、己の不明を認め、颱への認識を改めた。

 思えば皇太子妃は、姉皇太女に何かあった場合、代わって立つ可能性もあったのだ。これほどの知識・教養もむべなるかな。寧ろ、これ程の才智を、姉皇太女の陰によくも隠していたものである。とはいえ、嚢中のうちゅうの錐は、いずれ外へ顕れるものである。


(否……寧ろ……)


 普段は、何かを抑えたような伏し目。だが、旣魄が難題を課すと、金色みを帯びた瞳が好戦的にきらめく。そして、なんだかんだと旣魄が課した山を越えてくる。それに何度、驚かされたか知れない。


 驚かされることを、楽しんでいたというのならば、確かに楽しんでいたのかもしれなかった。


 ある時から、妃は池に面した水榭あずまやで琴を奏するようになった。政務の傍ら、その音を聴くとも無しに聴いていた旣魄の耳を打った、ある曲に、彼は耳を疑った。


「……この曲は……」


 亡き母后が、生前、時折奏でていたという曲。

 直接母后から教えられた乳母以外、誰一人としてその曲を知る者はいなかった。恐らく、母后の故郷の歌であろうと、乳母は生前に言っていた。


 亡き母后は、父皇がどこかからか連れてきた、異民族の女人だったという。自分と同じ――銀の髪、銀の瞳、銀の爪の、謎めいた異貌の皇后。そんな容貌の人間に、旣魄は己以外、未だ嘗て出逢ったことが無い。特異な母の容貌を、父皇は厳に隠しながら、降るがごとき寵愛を注いだ――という。しかるに、母后が産んだ旣魄は、生まれながら、その身のどこにも浩の皇族らしい“青”を持たなかった。


 旣魄を産んですぐ母后が身罷り、失意の父皇は、名すら与えず、彼を離宮へと追いやった。

 “旣魄”の名は、この身とともに、母后が旣魄に残したもの。それ以外、何も知らない。

 どこ出身の、どんな人であったか。そして、――一体、己は何者なのか。

 この疑問が、常に旣魄を悩ませた。特異な容貌以外にも、己が普通とは違うことに、早くから気付いていた。これは、己に流れる浩の皇族の血ばかりが理由とも思われなかった。なれば、異民族の母の血か。それとも彼だけのものか――古今の書物を片っ端から濫読し始めたのも、もともとは、あやふやな己の輪郭を求めたが故だった。けれどもこれまで、その手掛かりの一端すら、見当たらなかった。


 それなのに。


 何故この曲を、妃が知っているのか――。

 焦燥感に駆られながら、旣魄は、己の笛子を取り出していた。


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