第六十五

「――何の騒ぎです」


 車の中から響いたその一声に、場がシンと静まった。旣魄きはくは、思いの外よく響く声に、意外を感じた。


 颱に密かに探りに潜ませていた者の話とは随分、印象が違う。

 第二皇女は、浩行きを大層嫌がって周りが必死で説得したというから、てっきり泣いているか沈んでいるのかと思っていた。

 が、その声は落ち着いている。

 静かながら、良く通り、天上から響いてくるように厳かな。


「殿下、少女がお祝いを奉りたいと申して護衛と悶着になったようです」


 車の傍に控えていた女人が答えた。怜悧な目元は、いかにも女官、といった風情だ。


「開けなさい」


 号令がかかり、一斉に列の者達が跪いた。

 慌てたように、その少女も跪き、拝礼した。


 風に乗って、甘く艶やかな香りが、鼻腔を仄かにかすめた。


 悠然とした動作で車から降りてきたその人は、藍色の、浩の礼服を身に纏っていた。花嫁が被る花勝をさらりと払った。

 月光を受けて照り映える雪原の如き白銀の髪がまろび出る。


 そして、射貫くように鮮烈な金緑の瞳。


 誰知らず、感嘆の溜息が落ちた。――書物によると、その瞳は、感情に応じて、時に黄金に染まると言う。が、今は声同様に落ち着き払って、透明感のある金緑色が静かに少女を見下ろす。


「うわぁ~……噂に違わずというか、噂以上というか。迫力の有る美人ですねぇ」


 背後で暢気な羽騎の声がして、無礼だぞ、と兄の羽厳にまた咎められている。


「殿下。お顔を見せては――」


 傍の女人が言うが、皇女は取り合わず、少女に声をかける。


「そなた、名は何と申すのです」


 少女は、緊張した様子ではあったが、それでもはっきりとした声で劉英英りゅう・えいえいと名乗り、近くの村の見習い巫女だと述べた。


「昨年、皇太子殿下に村を救って頂きました。この度、その女弟皇子いもうとこうし殿下が浩へ嫁がれると伺い、僭越ながら、馳せ参じました。どうか、わたくしどもの志をお受け取り下さい」


 たどたどしくもそう口上を述べて、少女が差し出したのは、桃の花の一枝だった。緊張でにぎり込み過ぎたのか、枝振りは良いが、若干花がくたびれてしまっている。

 

「そなた、知っていますか。身分の上の者の車を止めるのは、法では死罪に当たります」


 皇女の言葉で、兵の目が一気に少女に向けられる。

 少女は恐れをなしたように顔色を変えるが、皇女は手の動き一つで警戒を解かせた。


「以後お気を付けなさい」


 冷然としてはいたが、悪くすればその場で斬り捨てられていた可能性もあるのだ。

 そうならなかったのは、幸運に過ぎない。それを冷ややかとも言える口調で戒めたのは、結局の所、その少女の為だろう。


 恐縮した様子で少女が頷くのを認めてから、盆の上の桃花の枝を手に取り、ゆっくりと眺めた。


「……何故これを?」


 緊張に乾いた唇を少し舐めて、少女は意を決したように口を開いた。


「『桃の夭夭ようようたる、灼灼しゃくしゃくたる其の花。之の子 とつぐ、其の室家に宜しからん』。――桃の花は殿下の益々の美しさを。実や葉には薬効があります、殿下の身心の御健勝を。枝は邪を打ち払い、災厄の降り掛からぬことを。――浩に行かれても、殿下に天のよみしあらんことを、御祈念申し上げます」


 言い終えると、頭を下げる。金緑の瞳がそれを見下ろす。その反応を、誰もが固唾を吞んで見守る。


「――劉英英」


 鈴の鳴るような声が、少女の名を呼ぶ。呼ばれて少女は、顔を上げる。


 いっそ厳しささえ滲ませる程の無表情だった皇女が、その時、ふわりと笑った。

 雨上がりの青空へ向かって咲き誇る花のような――破顔。


 その温度差に、少女は驚いた様だったし、周りにいた者達も静かにざわめいた。


「様々の祝いを頂きましたが、これほど相応しいものもないでしょう。――まだ桃の時期には早い。これほど見事な枝を探すのは、さぞ骨折りだったでしょう」

「……少しでも立派な枝をと、」

「その心は、何にも代えがたい宝と言えましょう。礼を言います、劉英英」


 颱側か浩側か、誰からともなく「……女神だ」「心も美しい」などと囁き交わす声が上がったのだったが、この時の旣魄の耳には入っていなかった。


「……さて、」


 金緑の瞳が、眼前に迫った浩疆の碑石に向けられる。


「あれよりは浩の域」


 皇女の声が、厳かに響き渡る。その透徹とした目は、まるで戦いに臨む戦士のようだ。実際、彼女にとって、浩は戦いの場に相違ない。


「――仮令たとえこの身は颱を離れようとも、心は常に颱にある」


 声に応じ、皇女の傍らに白虎が顕現する。その吼号こうごうが天地に響き渡る。それに掻き立てられるように、颱の行列のあちらこちらから声が上がり、忽ち渦となり、雲霄あおぞらつらぬかんと立ち上る。


「劉英英。――そなたも、我が巫達とともに歌ってくれますか」

「光栄にございます!」


 一行は更に先へ進み、巫官たちが居並ぶ。同じく礼装をした女性達が、皇女の背後に並ぶ。

 楽の音が荘重に流れ、巫達による舞楽が始まる。少女の声が、列巫の声に重なる。

 天を見上げる皇女の目に映っていたのは、澄みわたる蒼穹か、高々と掲げられた故国の旗であろうか。


「――偉大なる列祖・列宗にお別れの挨拶を申し上げます。わたくしどもはこれより、颱の地を去り、遥か浩の地へと参ります。我らが列祖・列宗、諸神明よ、白虎よ、月神よ、どうか御加護を。鬼神の祟りを受けず、獷賊こうぞくしりぞけ、道中の無事をお守り下さい」


 高らかに告げ、深く拝した。それに倣い、颱の者は皆跪き、首を垂れた。


 その舞の最中、案の定動き始めた刺客達を、一行のもとに辿り着く前にと、旣魄と羽厳・羽騎で斬り捨てた。


 そうしている内に、颱と浩の護衛とが入れ替わり、一方は浩へ進み、一方は颱へと引き返していった。


 それを見送った彼の脳裏には、不思議と、皇女が一瞬見せたあの笑みと、鮮烈な金緑の瞳がちらついていた。

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