紀第十七 斯くして波紋は投じられたり

第六十四

「殿下、まことに疆場国境までいらっしゃるのですか?」


 今まさに騎乗しようとする彼の背に、静かな声が投げかけられる。


「巫澂。――ああ。穆妃ぼくひの件もある。道中、何があってもおかしくはない」


 地味な灰色の斗篷を纏い、帽を目深に被り、彼の目にはくらりとする程に照り付ける日差しを遮る。


「颱の皇女が嫁いでくる。それを知って、あの女が動かぬ訳がない。日頃から、あれだけ必死に私を孤立させようと日々尽力しているのだからな。だが、ここで皇女を死なせたら、浩の面目は丸つぶれだ。掌中の珠と慈しむ娘や妹の死に、颱帝や皇太女が黙っているとも思えない。……そんなことにも頭が回らぬ程、私への怨みは深いようだが。私が手を下さずとも、あの女を排除してくれるというのならありがたいことだが、仮にそうなったとして、お前の気が済まぬだろう? ――瀏客りゅうかく

「……旣魄きはく


 咎めるような巫澂――祁瀏客き・りゅうかくの声を黙殺する。

 彼は、周貴妃の父・周宰相によって陥れられた、賢臣・祁弘烈き・こうれつの息子だった。弘烈の妻を乳母に持つ旣魄と、瀏客は幼い頃から実の兄弟のように育ってきた。


 浩都・瑞燿から遠く離れた東部で多くの時間を過ごした旣魄も瀏客も、遠く離れた颱人よりも、幼少より執拗につけ狙い、幾度と無く自分たちと周囲の者の命を脅かし、また奪ってきた周宰相父娘おやこに対する負の感情の方が圧倒的に強かった。


「まあまあ!! 難しい理屈は兎も角、早く花嫁の顔を見てみたいんでしょう。何しろ大陸一の美女という噂じゃないですか~。“天賜星娥てんしせいが”でしたっけ? 我らが皇太子殿下と、どっちが美人でしょうねえ?」

「比べてどうする、羽騎う・き。――おまけにそういう噂は、大抵誇張されているものだ」

「それにしても、同じ母親から生まれてるんですから、皇太女の方だってそれなりでしょうに。なんで姉の方は“抜山虎女”だの“騎虎姫将”だの、物騒な通り名ばっかりなんでしょうねえ? 颱の皇太女って、アレでしょう? 何年か前の大規模な山賊の討伐でも大活躍したって聞きますけど、不思議と外見については聞きませんよね。びっくりするくらい似てないとか、口に出せないくらい醜いとかなんですかねぇ?」

「……颱の皇太女の場合、外見以外の情報が多すぎるからでは」


 僅か二歳で白虎の守護を得、皇嗣たるを嘱望された姉皇女は、驚く程の華々しい功績を打ち立てていた。


「ああ、成る程です!! つまりは、“引きこもり”以外の情報がない殿下と真逆――っ痛ってえっ!!」


 羽騎の軽口に、隣の馬に騎乗する兄の羽厳が槍の柄でその頭を強打した。


「関係の無いことだ。――どうせ顔を合わせることもない」

「ええ? ですか?! 勿体無い~」

「瀏客。留守中はいつも通り頼む。――行こう」





 兵馬の進む音がこだまし、“颱”の国号が刻まれた白い旗が幾重にも連なる。それらには、何れも金銀で美しい月来香の花が刺繍されていた。林立する木々の間に潜み、旣魄と羽兄弟とはその様子を見守った。


 壮麗な列は、その初めから終わりまでを、一目では極められぬほどに続いている。

 

 颱では、慶事には国色である白を用いると云う。皇帝以下皇族・士族から平民に至るまで、皆正装に白を用い、刺繍の色や種類、装身具で身分の差をつけると聞いた。列に並ぶ人々も皆、やはり白い衣を纏っていた。


 颱は、女帝統治のもと、数百年に亘り、大きく見れば、安定した内政が敷かれてきた。殊に当代の女帝は名君と名高い。その国力の一端を見る様である。


 あと一里で、颱と浩の国境に至る。

 そこで、浩側の護衛と颱側の護衛との交代の儀が行われる筈であった。厳重に警護されている颱の皇女も姿を現すだろう。狙われる可能性が高いのはそこだった。一行を追う影はこれよりずっと前から察知していた。ここに来て、一気にその気配が物騒な空気を醸しだし始めている。彼は、羽騎と羽厳に合図を送る。


 「浩疆こうきょう」と記された碑石の前――颱と浩との疆場に、先頭が差し掛かる。少し離れたところに、浩の兵馬が並んでいる。


 行列へ、一人の少女が近づいた。が、案の定、護衛の兵士達に追い払われる。少女は頭を下げてなおも食い下がった。何か懇願している様だった。

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