紀第五 卜するに曰く

第十七

「失敗した、だと? ――この役立たずめ!!」


 女が近くの者に目をやると、傍に控えていた者が、床に這いつくばるように頭を下げた男を一斉に杖で打ち据える。

 男の唇から呻きとともに血が漏れた。


「――お、お許しを!! 皇太子妃の傍には凄腕の護衛に、巫澂までもが付いていたためにっ」

「!!……また巫澂か……!!」


 苛立ちの声が募るにつれ、杖を揮う勢いは強まっていく。


「たかが巫官の分際で……!! いつもいつも邪魔をする。忌々しい水璧志すい•へきしいぬめが」

「貴妃様っ……どうか……」


 まあまあ、と取りなす声が軽やかに響く。


「たかが、とはいえ巫澂の操る禁気術は当代随一という話ではありませんか。噂では、穹嶮處人きゅうけんしょじんの弟子とか。巫官の長になる日も、すぐかも知れませんね。今の太巫令もご高齢ですし」


「何を暢気なことを……水遜すい•そん! お前がもっとしっかりしていれば、この母がここまで気を揉むこともないというのに。わかっているのですか? お前の双肩に一族の存亡が懸かっているというに。皇太子が即位したら、周一族を見逃すとでも? お前も、おとうとも無事では済まないでしょう」

「おっと、矛先が私の方に向いてしまいましたか。これは失敗、失敗」


 からからと笑って、水遜と呼ばれた男は小脇に抱えた箜篌たてごとの弦を弾く。


 藍衣を肩に羽織り、全体的にゆるりと着崩したその姿は、酒楼にたむろする酔客のようである。

 本来、皇宮に参るときには髪を結い上げ、冠を被るべきである。が、彼は冠も被らず、青龍の守護を持つ皇族特有の、濃い藍色の髪を高い位置で括っているばかりだった。


「まあまあ、そう焦らず。母上。私も、世の天楽・秘曲を究めぬ内に死ぬのは嫌ですからねぇ!」

「お前は……、」

「そんなに怒らないでください、母上。どうもあの颱の皇女が来てから、苛々しておられるようですが」


 指摘されて、周貴妃・雅琴がきんはぴくりと眉を跳ね上げる。確かに、必要以上に苛ついている自覚はあった。


 颱の皇女の、あの白銀の髪。

 浩では滅多に見かけることのない、月や星の光を溶かし込んだような。

 あの白銀を目にする度、あるいは脳裏を過る度、無性に胸がざわつく。


 彼方へと追いやった筈の、古い記憶を呼び覚ますようで。


「ともかく。此度のこの婚姻は皇上が御自ら推し進めたもの。下手に動いてはこちらの首が絞まりましょう」


 頭痛とともにいらだちを募らせた雅琴がこめかみを押さえていると、女官が来客を告げた。通しなさい、と促すと、すぐに控えめな玉音が響いた。


「母上。兄上も。いらしていたのですね」

「遼! 久しぶりだねえ!! 元気にしていたかい?」


 水遜と同様に、藍の衣に身を包んだ少年は、目元に白い布を巻いている。

 彼は、目が見えていなかった。窈王ようおう•水遼である。


「はい、兄上」

「それはよかった!! 窈王妃ようおうひ。君も一緒だったんだね」

「お久しゅう御座います。窈王妃・玿兮しょうけいが、周貴妃様、尚王殿下しょうおうでんかにご挨拶申し上げます」

「うんうん。窈王妃、君も元気そうだね。それに相変わらず夫婦仲も良いようだ!! 大変結構なことだねえ。感心、感心!!」


 箜篌を爪弾きながら、そう嘯く。


「本当に。――お前の妃にも、窈王妃の爪の垢を煎じて飲ませるべきね」


 横目でその様子を見ていた周貴妃が吐き捨てるように鋭く零す。


「はははっ! お許しを、母上。これは、我が妃だけの問題という訳でもありませぬ故」

「――先程は、何をお話ししていらっしゃったのですか?」


 母の声音から、その苛立ちを敏感に感じ取った窈王が尋ねる。


「お前に話しても、意味の無い事です」

「聞いても面白くない話だねえ」


 母と兄、二人の口から同時に放たれた言葉は、方向性こそ違えど、少年に聞かせる気は無いという点では一致していた。


「……そうですか」


 少年は小さく微笑んで頷いた。


「――さて。そろそろ私はお暇致しますね、母上」


 沈黙が落ちるや否や、水遜は素早く辞去の礼を取り、母が何か言う前に窓を開いて飛び出していった。


「お待ち、遜! まだ話は――」


 周貴妃が呼び止めるも、その姿はすでに遠い。


「焦りは禁物ですよ! 母上~!!」


 高らかに笑う声だけが、響いて、消えた。

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