第十三
北の離宮・瀏如宮へは、馬車で数時間の移動だった。小ぶりながら瀟洒な雰囲気の宮殿である。
「こちらでは最短で八日間お過ごしいただきます。朝と晩に沐浴をして身を清め、飲み物は白湯、食物は身を清める白い食物のみをおとりいただき、七日かけて祝文をお書きいただくことになります」
「七日かけて……?」
「はい。一日に決められた分をお書きいただきます。改行の仕方も全て同じようになるようになさってください。こちらに書き入れる記入者の名は、皇太子妃殿下のお名前をお入れください。日付は最終日にお書きいただきます。間違えてしまうとはじめからやり直しとなります」
「
「左様にございます。儀の中で燃やしてしまいますので、残ることはございません」
皓月や皦玲というのは字、即ち呼び名であり、真の名はまた別にある。
女人の真名は秘すものとされ、普通、命名した親しか知らない。
今回、身分を交換して、皦玲の真名を初めて知った位である。庶民となると、そこまで厳格ではないのだが。とはいえ、これは神に
更に説明を受けた後、瀏如宮滞在中の世話役に当たる巫官達と引き合わせられた。
そこで一人ひとりの巫名を尋ね、しっかりと記憶する。
東宮と比べれば、警備体制は段違いに緩いこの宮で、誰と知れぬ者に身の回りの世話などさせる訳にはいかない。
まずは沐浴をするということで
「この冷たさが心身を清めると言われております。どうぞご辛抱を」
静かな口調で、巫官の一人が言った。衣服は皓月同様の浴衣に身を包んでいるが、
男性巫官――
身体を震わせながら浴殿の控えの間に移動すると、そちらは
(……これを朝晩、七日間……)
考えるだけでげんなりしてくる。身体を鍛えている皓月ですらこれはなかなか辛い。長公主が体調を理由に辞退したというのも仕方ないだろう。と思う一方、もしやこれをやるのが嫌だから体調を引き合いに出してきたのか、などとも思う。
或いは、こういう形のいびりか。
いずれにせよ、任命された以上はやり通すまでである。寒くて辛い、などと泣き言を言えば、それ見たことかと侮られるかもしれない。
巫官たちから官女に世話役が交代すると、彼女達は布を幾つも使って、丁寧に髪を乾かしてくれた。その後、
「常の皇太子妃殿下も美しゅうございますが、こうしたお姿もまた異なる美しさですね……儚げで神秘的な雰囲気が一層引き立って、花仙のようですわ」
「それでは浄殿へご案内致します。そちらで祝文をお書きいただきます」
案内された殿内に入ると、巫徴が既に控えていた。
「こちらに。まずは墨を
低く何かを唱えながら、筒から出した水を硯に垂らす。
「摺り方に決まりはありますか」
「手の力を抜き、墨自身の重さで、硯の感触を味わい、その摺り音に耳と心を澄ましながらゆっくりと円を描くように摺ります。水と墨がよく混ざった、粘度の濃い墨が望ましゅうございます。目安としては、墨の香りがふっと漂い始めるまで、と言われております」
皓月は手に墨を取り、袖をもう片方の手で押さえながら摺る。普段自分で墨を摺ったことなど無いので新鮮だ。
微かに響く繊細な音に耳を澄ますと、心が静かに落ち着いて行く。やがて、墨に含まれる
傍らで見守る巫徴に視線で問うと、頷き返された。これで充分、ということだろう。
皓月は改めて祝文を見下ろす。――が。
「これを、本当に、書かなければらないのですか」
短い沈黙の後、皓月は確かめるように言葉を切りながら尋ねた。
祝文の文体を
まずは偉大なる祖先と自分の関係を述べ、その血の高貴なことを示す。次いで己の才徳や美点を、言葉を尽くして書き連ねる。そして、願いを述べ、叶えられた場合にこちらが用意する供物を述べ、叶わなかったときには何をするかを述べる。要するに脅しだ。それが嫌なら是非とも叶えて下さい、とこういう訳である。
「『巫は辞を正しくすべく、
辞を正しくするとは、美点をむやみに誇張して述べないことであり、矯挙とは功徳を偽ることである。
「……思った通りをお書きしたまででございますが、慎み深い殿下のお気に召しませんでしたか? このように自己の美や才徳を述べることで、神に
それは、分かる。
理解している。
謙虚過ぎれば神明に見向きもされないし、明らかな偽りを述べれば今度は欺くことになる。
祷祝体は、その辺りの匙加減が難しいのである。
だからこそ、学識を備えた巫官が書くのだ。
とはいえ、1日目から6日目まで全て、高雅で薫り高く麗しい言葉で、いかに自分が素晴らしいかを述べ立てた、冷静に書くには恥ずかし過ぎるこの文章をひたすら書かなければならないなど。どんな拷問だ。
颱でも、こういった祝文を書いたことはある。が、今この祝文と比べれば、圧倒的に簡素・簡潔と言って良いだろう。さすが、文雅を尊ぶ浩、ということか。
「……この祝文、まさか巫徴が作ったのですか?」
「はい。僭越ながら、巫官の中で最も皇太子妃殿下と接しているということで、
生真面目に答えた巫徴の目の前で、皓月の微笑みにぴしりと亀裂が入る。
一体、どんな顔をして書いたのか。……いや、きっと普通に真顔だろうが。
斯くなる上は、精神修行だと思って諦めるしかない。
「……我が儘を申しました。……いたしましょう」
思った以上に
羽厳がいればまた拳骨を落としただろうが、彼は夜間の番ということで、今はいない。
「……羽騎」
代わって、巫澂が窘める。が、羽騎は「すみませーん!」とあくまでも軽い。
こんなに賑やかな衛官で、果たして大丈夫なのだろうか。内心呆れながら、皓月は筆を取った。
* * *
「できました。巫徴、確認をお願いします」
一気に書き上げた皓月は、深々と息を吐いて筆を置く。
「ありがとうございます。拝見いたします」
受け取った巫澂が字に目を落とす。
「――これは」
思わず、と言った風にこぼすと、沈黙した。
余りに沈黙が長いので、「何か問題がありましたか?」と尋ねると、ようやく彼は頷いた。
「いえ。……完璧です」
「そうですか。よかった」
ほっと息を吐いた皓月に、官女が水を差し出す。
随分と息を詰めていたことに気付くと同時に、急に喉の渇きを覚えて、杯に満たされた水を唇からそっと喉に注ぎ込む。
緊張感に火照った身体を、冷たい水が潤し、解いていく。
本来の皓月の字は、女人が書いたものとしては力強すぎる。
妹のものに相応しく、力加減を調節し、柔らかに、あくまで優美さ、繊細さを意識して書いたため、想像していた以上に神経がすり減った。
「それでは、食事の用意をさせます。それまでゆっくりお休み下さい」
「食事のあとにする事はありますか」
「本日は食事のあとの夜の沐浴が終われば以上でございます」
そうだ。夜もあったのだった。昼であの冷たさなら、夜はさぞかし冷えるだろう。
書き上げた祝文を持ち上げようと軽く動いた拍子に、巫徴の纏う辟邪香の香りが鼻腔をかすめた。
「――? 巫澂、香を変えましたか」
何気ない風を装って尋ねる。
一瞬巫徴は黙ったものの、すぐに「
確かにいつもと同じ、辟邪香ではある。
通常の辟邪香とは少し調合の異なる、爽やかでいて、澄明な水を思わせる、かと思えば柔らかな深みを感じさせる――が、やはり何かが違うような気がした。
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ここまでご覧下さってありがとうございます。
5日付け近況ノートで、冊子版の表紙デザインのリンクをご紹介しました!
ヒロイン•皓月、皦玲、そしてヒーローのビジュアルを公開しております。(Xに飛びます)
イメージを持ってお読みいただければ、よりお楽しみいただけると思います。是非ご覧くださいませ。
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