第十四
「
書面に目を落としていた巫澂は顔を上げた。
「お疲れ様です、
「――か弱き御身で、刺す程の冷たさの寒泉の沐浴にも無言で耐え、質素な衣や清めのための粗食にも顔色一つお変えにならず、粛々とこなされていらっしゃいます。また今回補佐にあたる巫官達にも、一人ひとりにお名前をお尋ね下さり、正確に記憶していらっしゃいます。さすがは白虎の守護を受け、颱帝の継承権を有していらっしゃった御方、と申せましょうか。御心ばえが異なっていらっしゃいます。真に高貴な御方とは、殊更に威厳を示さずとも、自然と人を懐かせ、
淡々とした声音ながら、自国の公主への辛辣な言葉に、巫澂は諭すように巫瑩、とその名を呼ぶ。
この斟の儀は、国家の象徴である霊木に神水を捧げ、国家の安寧を祈る重要な儀式である。その一方、この儀において重要な役である司水の任は、女子が執り行うこととなっている。大体は後宮の妃や皇帝の公主達から選ばれた。大変な名誉である一方、大切に育てられた姫君には負担の大きい役目として嫌厭されてもいた。
そして、大抵その不満の矛先は、妃や公主たちの指導や儀式中の世話にあたる巫官へと向いた。
浄化の為の食事を出せば、「こんな粗末なものをわたくしに食べよと? お前はわたくしを侮辱しているの?」云々。同じく浄化の為の寒泉での沐浴を行えば「繊細なわたくしの肌が、こんな拷問に耐えられるわけがないでしょう!?」云々。
昨年、巫瑩は癇癪を起こした公主やその側仕えの者に散々に打たれ、叩かれた。
公主相手に抵抗することもできず、しばらく寝込むほどの怪我を負わされた。
故に、巫瑩の辛辣な言葉も仕方の無いこととは思われた。とはいえ、どこに耳目があるかわからない。
「確かに皇太子妃殿下はお心ばえの優れた御方です」
颱の皇女が来る、と聞いて、巫官たちは内心、恐恐としていた。
一体、どんな姫君が来ることか、と。
が、実際にやって来たその人は噂通りの美貌は然る事ながら、お役目も誠実にこなし、気品を保ちつつ、目下の者にも寛大だ。
「なんにも物が飛んでこないなんて!」
「こんなに順調に進んだことがある?」
「もう毎回あの方に来ていただきたいわ! そのためにも――」
『心を込めてお世話しなくては!!』
――などと、一致団結した巫官達が、本人が聞いたら、目が点になりそうな会話を交わしていたとかいないとか。
「――巫瑩。これを御覧なさい」
「? 今回の祝文の
「いえ、私が書いたのはこちらです。これは、皇太子妃殿下がお書きになったものです」
今、案の上には巻子が二つ置かれていた。
一つは見慣れた巫澂の字。一画一画を疎かにせず謹厳に記した荘重な真書。
現在、公文書の類いでは最も用いられている書体だ。そして、もう一つは、装飾の施された、複雑で神秘的な字が並んでいる。
「こちらを……皇太子妃殿下が?」
祝文の文体を“
しかし、余りの難解さ故に次第に廃れ、現在は祝文でしか見かけない。
故に、読書人は勿論、巫官の中にも、書くことはおろか、読むことすらできない者も多い。
司水の役目は、伝統的に女子が担っていることから、祝文の字体も、祷奏体を用いなくてもよい事になっている。故に、巫澂が用意した書体もそれに則って書いてある。だから、祷奏体に改めて書きあげてきたのは、純粋なる皇太子妃の実力ということである。
「細部に迸るような緊張感を湛えながらも、全体には流麗、かつ躍動する気を感じさせる筆跡。この複雑な祷奏体を斯様に見事な書で書くことの出来る方は、専門の巫官でもそうはおりますまい」
詠ずるような声は、落ち着き払っていたが、その響きには賞賛が湛えられている。
「学識においても優れていらっしゃるとは、ますます素晴らしいことです」
巫瑩は声を切り、殊更声を顰めた。
「――だからこそ、皇上は皇太子妃にお選びになったのでしょうか」
「……さて。私の如き賤官に、
「畏まりました」
* * *
「っ……流石は姫……」
こっそりと、あらぬ場所で巫官二人の会話に聞き耳を立てている男がいた。皓月の配下・慎である。これほど近づいていれば、巫澂が勘づきそうだったが、今日はこうして近づくことができた。それで、この二人の会話が耳に入ってきたのである。主である皓月の行動について、本人が聞いたら確実に目を点にするであろう解釈に、慎は声を必死で押し殺し、腹を震わせて笑っていた。
巫官の名前を尋ねたのは警戒心からだろうし、黙って耐えているのは弱音を吐いたら侮られると考えているからだろう。
祷奏体を習得した流れを、彼らが知ったら、一体どんな顔をするだろう――。
皓月が何かやらかすと、颱帝は決まって、皓月を独房のようなところに閉じ込め、ひたすら経書を祷奏体で書かせた。じっとしているのが苦手な皓月にとっては何よりの仕置きだった、と遠い目で以前、本人が語っていた。
敵対しているはずの、出会って間もない浩の人間に、好意的に評されるのは、皓月の人徳というものであろう。守られるのに慣れきった、警戒心の欠片もない、ひ弱な妹姫では、こうはならなかったはずだ。
(否。……そう見せていた、か)
あの日を思い出して、慎は剣呑に目を細めた。
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