第十五

 翌朝、三度目の沐浴を行い、祝文書きを終えたあと、午後から韶楽殿しょうがくでんという場所に案内された。様々な楽器の保管庫兼演舞・演奏場といったところだろうか。


「師巫。お言いつけ通り、万事整ってございます」


 既に待機していた巫官の言葉に、巫澂ふちょうが頷く。声や雰囲気から察するに、昨日浴殿で世話をしてくれた巫官の一人、巫瑩ふえいであろう。


「これより斟の儀で行う巫舞についてお話し致します。――皇太子妃殿下はこう巫舞ふぶを御覧になったことはございますか?」

「ありません」

「それではまずお見せいたします。――巫瑩、宜しくお願いします」


 巫瑩と呼ばれた巫官が頷き、進み出る。装飾の施された長剣を手にしていた。


「……剣を用いるのですか」

「左様にございます。巫舞では必ずなにかしらの採物とりものを持って行います。剣か神樹の枝が普通ですが、しんの儀では剣と決まっております」


 これには巫瑩が答えた。

 斟の儀について、流れの詳細を確認しておくべきだった、と後悔するがもう遅い。普段なら確認を怠らないというのに。

 荒事を苦手とする皦玲きょうれいが剣を持っているのを、皓月こうげつは見たことがない。皇子こうし教育には入っている筈だが。どう振る舞うのが正解か。滞り無く儀を終えねば非難を受けるだろう。然りとて、平気な顔で剣を揮うというのも皦玲不自然だ。


「こちらは安全のため、刃先は潰しております。刃を持っても切れたりはしませんのでご安心下さい」


 迷う心が声に表れて、剣に怯えているように響いたのだろう。声を穏やかにして、巫瑩が付け加えた。


「そうですか……わかりました」


 一応、ほっとしたような笑みは見せておく。

 巫瑩が壇に登り、剣を構えて立つ。巫澂が合図を出すと、控えていた巫官達が楽を奏し始めた。


 始まりを告げるしゅくの音。

 そして、楽の中心をなす磬鐘けいしょう、鼓などの打楽器の音が鳴り響き、琴・おおごと、そしてけんしょうといった笛の音が次々重なっていく。


 その音に合わせ、ゆったりとした動きで巫瑩が舞い始めた。


「――巫舞は、八つの動きが基本です」


 巫澂に言われて巫瑩の舞う動きを観察していると、おおよその流れはすぐに分かった。剣術や剣舞に慣れ親しんだ皓月にはすぐに再現出来る動きだ。


「一から八までの舞の型を続けて行い、それを八度繰り返し、おさめの舞をして終わりとなります」


 一連の舞を終えた巫瑩が元の姿勢に戻る。


「では、皇太子妃殿下もこちらへ。本日は基本の八つの型をお伝えいたします」


 巫澂が剣を捧げ渡してきた。その柄に手を掛けたとき、ひりつくような感覚が手の内を駆け抜けた。鞘を払えば、鋼の輝きが目を刺す。手に伝わる懐かしい感触に、知らず、身が震えた。胸を突くように湧き上がる、形容しがたい衝動を抑えるように、ぐっと柄を握り込む。


「わたくしのあとに続いて動いて下さい。まずは一つ目の動きです」


(――こんな時、皦玲なら、どう動くだろう?)


 巫瑩に促され、迷うままに剣を突き出した。息苦しさを覚え、きっさきが小さく震える。


「視線は前を、腰はもう少し落とします」


 繰り返し練習して、動き方を身体に覚えさせる。然程難しい動きでは無い。だが、皦玲ならどう動くか、考えれば考える程に呼吸が整わず、じとりとした汗が、額や背中に滲んだ。恥ずかしさとは異なる、祝文を書くときにも軽く生じた戸惑い。だが、これが筆から剣となると、その振れ幅は益々大きくなった。苛立ちに身体が思うように動かない。


(これは――何だ……)


 苦しくて目の前の視界が揺らぐ。


(今、舞っているのは……誰だ……? わたくしは――……)


 皓月は、己の芯と輪郭とが曖昧になって、今立っている場所ごと崩れ落ちていくような恐怖を覚えた。


 びゅう、と。耳朶を駆け抜けていった、一陣の鋭い風の音に、はっとした。


「……つ、れい……?」


 月靈。


 喉の奥で紡いだその言葉は、完全な音にはならず、くぐもったうめきとして唇から零れた。

 今の風は、皓月の白虎が起こした風だ。落ち着け、ということだろう。

 剣を持っていた腕を下ろす。


「皇太子妃殿下、いかがなさいましたか」


 巫澂と巫瑩が近づいてきた。


「……巫澂、巫瑩……。少し、外の空気を吸ってきます」


 剣を鞘に収める。頭を下げた二人の横を通り、付いて来ようとした巫澂を留め、外を求めて闇雲に歩く。


 無性に、風が恋しい。


 進んでいく皓月の動きに従って開かれた扉の先に、宵闇の空が広がっている。既に白い月がうっすらと姿を現し始めていた。思いの外時間が経っていたらしい。

 地面に散り落ちた、雪のような柳絮りゅうじょを踏み分けながら院子にわの中を進む。


 散り際の白木蓮の幽香かおりを乗せた夜風がひやりと頬を撫でていく。

 その風を全身で感じ取るように、皓月は目を閉じた。


 己の心に浮かぶ感情の形を確かめながら呼吸の音に耳を澄ませていると、夜の湖面のように、心が静まっていく。

 手にした剣を、胸の辺りまで上げる。

 鞘から刀身を半分程引き出し、白刃の煌めきを見下ろす。

 その光を受け、蒼みを帯びた金緑の瞳が、刃に映じてこちらを見返してくる。


 再び目を閉じ、吹き抜ける風の音に心を澄まし、皓月は鞘を払った。先程の巫瑩の動きを頭の中で思い描き、動きを確かめるように、――その実、己の心の在処ありかを確かめる為に――ゆっくりと剣を揮う。


 雪白せっぱくの髪が、白の浄衣が、はがねの鋒が、淡い月の光を受け、まるで彼女自体が仄かに光り輝いているようであった。

 けぶるるような銀の睫毛に包まれた金緑の瞳が、ともすれば妖しささえ感じさせながら闇の中で仄光る。突き上げた剣の動きに応じて、何かを求めるような、焦がれるような瞳が、――月を見上げる。

 風が吹き上がり、柳絮を巻き上げながら髪を、衣の袖を攫う。


「――妃殿下っ」


 背後から駆け寄ってきた気配が、切羽詰まった声で皓月を呼んだ。

 

 振り返ると、羽厳う・げんだった。

 一瞬、巫澂の声かと思った皓月は、少し驚いた。が、聞き間違いだったかと思い直す。


 直後、羽厳は、鋭い目つきのまま、剣の柄に手を当てた。

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