第十九

「――巫澂ふちょう様」


 しんの儀の当日。未明、皇太子妃を迎えに向かう巫澂に、衛士が蒼い顔で駆け寄ってきた。


桐華殿とうかでんで保管していた祝文が――」


 衛士の先導で中へ入ると、祭壇の前に厳封をしてしまっておいた祝文が、何者かによって床に乱雑に広げられ、何かの血と思われる赤い液体がまき散らされていた。


「祝文に異変があったと」

羽厳う•げん


 ちょうど皇太子妃の護衛を羽騎と交代したところで報告を聞いたのだろう。


「……御覧の通りです」


 手で示すと、彼は祝文に撒かれた血を認めて、眉を顰めて衛士に顔を向けた。


「お前は、いつ気付いた」

「今朝方です。子の刻頃に確認した時には異変はありませんでした」

「……警戒を強めてもう一度儀式に使う物、場所、全て確認をしろ。常に複数人で確認に当たれ」


 命を受けた衛士が踵を返す。

 完全にその足音が去ってから、彼は巫澂に視線を向けた。

 巫澂は血の撒かれた巻物を、祭壇上の燭台の蝋燭の火に近づける。やがてそれが燃え始めた事を確認すると、巻物を隅にある炉の中に落とした。見る間に火は燃え広がる。


殿が仰った通りになりましたね。一体、――どこまでお見通しのことやら」


 炎を見下ろしながら、巫澂が呟く。


「本物は?」

「こちらに」


 懐から巻物を取り出す。先程血で穢されたのは、巫澂が皇太子妃の字をまねて書いた偽物だ。秘されるべき名だけ、別のものに変えている。暗殺者ごときに読めはすまいが。本物は巫澂自身が保管していた。


「……好き勝手をしてくれる……」


 常に沈着な彼には珍しい、苛立ちの滲んだ声音が唇から発せられる。巫澂が手渡した祝文を軽く広げ、異状の無いことを確認する。


 風清韻ふう•せいいん


 末尾に書かれた、流水を思わす清麗な筆致で書かれたその名を視界の端に眺めつつ、確認を終えた彼は丁寧にまき直し、はこの中に収める。


「東宮とは勝手が違いますからね。あちらの手の者たちが無数に紛れ込んでいるでしょうし。なにより、こうも巫官が多うございますと……」


 身元を特定しにくい巫官の装束は、入れ替わりにはもってこいである。難度の高い巫術を用いるような仕事に当たることのない、下位の巫官ならば尚更。その上お互い、本来の姓名すら知らない。どの巫官が誰か、ということを完全に把握し得るのは、皇帝をはじめとするごく数人だけだ。


「流石にあの方々も、神水には手出ししないと考えたいのですが」


「そのような常識論が通ずる相手だとでも? お前もよく知っているだろう。あの一族のやり方を」


 刹那。連珠の奧の巫澂の瞳に、強い感情が浮かんで鋭く光った。柔和に弧を描いていた唇を、ぎりっ……と噛みしめる。立ち上るような怒りが、一瞬、彼の全身から放たれた。


 ああ、と喉の奥から漏れた声は、常より数段低い。


「知っている。――誰よりも」

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