第二十
「皇太子妃殿下。刻限にございます」
促されて、皓月は廊へ出る。儀式の為に改めた衣裳は、これまでの白い浄衣から打って変わり、
襲撃の翌日以降、斟の儀の準備は大きな問題も無く進んだ。襲撃犯達は、何人かは去り際にぶち撒かれた暗器のせいで絶命していた。羽騎が捕らえた生き残りは、牢に入れていたが詮議する前に口の中に隠していた毒で自決したという。
結局、明確な証拠らしきものは何も掴めなかったようだ。
一方、祝文の筆記は順調に進み、無事書き上げることが出来た。懸案であった剣舞については、
「儀式の流れをもう一度確認致します。始めに臣が
「卜して許可が下りないということはあるのですか」
「その場合、許可が下りるまで舞を続けることになりますが、滅多にございません」
滅多に、ということは、そういうこともあると言うことだろうか。
巫澂が差し出してきた祝文の巻物を受け取る。儀式を行う祭壇は山中にあるのだという。
「到着致しました」
輿に乗って移動すること一時ほど。
告げられて輿を下りる。見ると、祭壇には供物が捧げられ、大量に焚かれた辟邪香や種々の香草の香気が
「では、始めます」
巫澂の合図で、銅鼓の音が響き渡る。祭壇に進み出、巫澂の斜め後ろに立つ。
深々と礼をした後、巫澂が傍の器から杯に酒を注ぐ。涼やかな玉の音が響く中、その唇が詠うように迎神の辞を唱える。山間を巡る風声のような響きだ。
巫澂がこちらを向く。皓月は手に捧げ持っていた巻物を持ち、巫澂の前へ進み出る。打ち合わせ通り、火の中へ焼べる。こうすることで、芳香とともに神明へと祝文の内容が届くのだ。
読み上げるのでなくて良かった。本当に。そうでなければここでまた、恥ずかしさのあまり身悶えるところだ。
祭壇に置かれていた剣を持ち上げる。決められた動きで舞台へと移動し、始めの姿勢をとる。
(……とすれば、これは)
既に祝文も火に焼べてしまった。楽も始まっている。誰がやったか知らないが、このまま進めるまで。
小さく、皓月は微笑んだ。春の息吹を思わせるような、軽やかな笑みで。
足音も軽やかに、それは始まった。
はじめの舞の型、それから流水のように淀みない動きで二つ目の型へと移る。舞う度、皓月の足もとに撒かれた香草が踏みしだかれて高く香る。楽の音が、天高く響いていく。これら全て、神を誘い、招き、楽しませるためのもの。そうして、願いの成就を神明に請うのだ。
満場に漂う芳香、香煙に霞む視界、荘厳で神秘的な楽の音、その中で舞の動きに集中していると、不思議な感覚が身体の奥から湧き上がってくるような気がした。これで一周目。次いで二周目に入る。
一つ一つの動作を、頭から足の爪の先にまで意を注ぐ、楷書の如く謹厳な動き。
次第に速くなっていく楽の拍子に合わせ、皓月の動きもそれにつれ、流れるように、且つ激しくなっていく。剣を閃かす度に、
八周目。これを終えれば
“――は、誰だ――……”
奔流のように流れる楽の音に混じって、微かに耳に届いた、聞き覚えのない声。
暗闇の中に滴り落ちるひとしずくのようなその響きが、耳朶を駆け抜けて、目まぐるしく消えていった。
その音も完全に止む。静寂の中、皓月は剣を鞘に収め、終わりの礼をした。
「――
壇を下りると、巫澂の声が響いた。
卜占が始まったのである。水面に落ちる雫の如き斑紋を描いて、声が広がっていく。その様子を眺めながら、皓月は剣の
一体、誰が剣舞用の剣と真剣とを取り替えたのだろう。数日前の刺客。胸騒ぎがする。剣を取り替えた犯人は、皓月が怪我をすることを狙ったのだろうか。果たして、そんな不確実な方法に頼るだろうか。
ややあって、巫澂が困惑の入り交じった声を上げた。
「これは……」
「どうしたのです」
「可でもあり否でもある、不可解な結果です」
言って、考え込む風に首を傾げる。
「……まさか」
焦りを含んだ声を発して立ち上がる。そのまま、廟の奧へと向かう。皓月も後を追った。
一段高くなった壇の上に、胴に蛇が巻き付いた亀の像が設置されている。水を掌る玄武の像である。
「お下がりください」
巫澂が言うと、周りに護衛で控えていた衛士達が頭を下げて離れていった。
蛇の口から、透明な水が僅かに滴り落ち、下の盆に溜まって小さな池の様になっている。巫澂が己の冠から
「まさかとは思いましたが。見たところ、異変はないようですね。ただ、銀に反応しない毒も――」
「――巫澂」
ゆっくりと、確認するように名を呼んだ皓月の声に、巫澂は振り返った。
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