第四十六

「なかなか斬新な見た目ですが……これも食べられるのですか?」


 貝とも魚とも思われない、つやつやとした鮮紅色の物体である。


海酒嚢かいしゅのうといいます。外皮がお酒を入れるふくろに似ているため、そのように呼ぶそうです。生で食べるのが美味とされていますが、焼いたり、蒸したり、揚げたり、干したり、色々ですね。独特な風味や見た目で浩人でも苦手とする方は多いので、ご無理はなさらないでください」

「何で味付けをするのですか?」

「基本は塩でいただきます。生姜入り酢醤油や味噌もよく合うと聞きます」


 言って、一口大に切られた身を箸で取り、食べてみせた。真似をして皓月も一切れ口へ運ぶ。不思議な食感だ。塩味がしたと思えば、甘味が、そして僅かに酸味や苦味がしたかと思うと、余韻のように味わいが舌に広がる。新鮮な為か、予想した生臭さも癖もない。


「……不思議です。塩だけの味付けの筈なのに、複雑な味わいがします」

「仰る通り、海酒囊は別名を五味囊とも言い、浩の五味である甘味、塩味、酸味、苦味、旨味の全てを持つとされています」




「――貴様、何だと!? もう一度言ってみろ」


 突如、怒鳴り声が響いた。

 喧嘩だろうか。

 剣を抜く音、剣同士がぶつかる音までする。大して珍しい事でもないが、驚く振りくらいしておくべきだろうか。などと思案する。


(……だが……あれでは……)


「お二人とも、どうか落ち着いてください」

「邪魔だ!!」


 危惧した直後、止めに入った店の者が突き飛ばされた。皓月は眉を寄せる。無関係の人間にまで危害を加えるのはいただけない。


 風を切る音。

 はっとした皓月の目の前で、巫澂が思いのほか俊敏に立ち上がると、腕を振るった。


 ダンッ。


 巫澂の肩越しに見遣ると、床に長剣が突き刺さっている。

 皓月達の方に飛んできたそれを、巫澂が弾いたのである。卓子の上に置いていた、彼の扇で。


「……騒がしいですね。少々お待ちを。片付けて参ります」


 にこり微笑んだ巫澂の目に、一瞬だけ鋭く青い光が過ったような気がした。そのまま悠然と騒ぎの方へ向かっていったかと思うと、暴れている男二人をひっくり返した。


「なんだてめぇ!!」


 ひっくり返された男の一人が、いきり立って殴りかかってくる。

 もう一人もまた、剣で斬りかかる。

 

 巫澂は微笑んだまま、一人目をすっと躱し、手にした扇で軽く突いた。

 

 途端にがくん、と脱力して男が倒れる。また一人の斬撃もするりと躱し、扇で顎を突き上げた。

 高々と男の体が宙に浮いた。


 以前、瀏如宮で刺客に襲われた際、巫澂は巫術で応戦していた。だから、てっきり武術は使わないのかと思っていたが。


(……で、できる……)


 どうっと、男の体が床に叩きつけられる音を聞きながら、皓月は真顔になった。


「――?」


 扇を下ろして男達を見下ろすその背、その横顔に、一瞬、脳裏に何かが過る。


「――このっ」


 すでに巫澂に伸されていたと思われた男の一人が立ち上がり、剣を拾って背後から斬りかかる。


 そこではじめて、巫澂が剣を抜いた。一切迷いの無い動きで剣を受け止めたかと思うと、あっという間に男を昏倒させてしまった。


 力強く端正な動き、雷霆の如く鋭い太刀筋に、皓月は、表情を消して巫澂の背を眺めた。


 喧嘩していた連中を見事に伸した巫澂が店主と話していたかと思うと、店主は深々と頭を下げて戻っていった。戻ってきた巫徴は、何事も無かったかのように席に着いた。

 

 食事を終えた後、店を出た皓月と巫澂は、南昤門外の街を見て回った。


「ありがとうございます。とても美味しいお店でした。あんなに美味しい魚料理は初めてです」


 礼を言うと、巫澂は例の微笑みで小さく、いえ、と応える。


「お店の方と親しい様でしたが、良くいらっしゃるのですか」

「ええ。宮仕え前は、友人が美味しいと気に入っていたので、度々来ていました」

「友人……? 旣魄はそうでもないのですか」


 微妙な言葉遣いに尋ねると、巫澂は迷うように視線を彷徨わせた。


「……恥ずかしながら、わたくしは味がわからないのです。食感や、香りの違いは分かるのですが」


 えっ、と皓月は驚きの声を零した。先日、皓月がお茶を振る舞ったとき、彼は正確にお茶の味わいを言い当ててみせた。皓月の表情から、巫澂も同じことに思い至ったのだろう。


「あの時のお茶は本当に美味しゅうございました。それは本当です、あのときも申し上げましたが、お茶が、というより、飲食をして、何かが美味しいと感じたのは初めてだったのです。……不思議、ですね」


 言う巫澂と目が合って、皓月は思わず目を逸らした。

 

 この落ち着かなさは、何だろう。


 穏やかで、凪いだ水面を思わせる眼差し。

 深く心に沁み入るような――あんな眼差しを、未だ嘗て、誰かから向けられたことなどない。

 だから、それが一体いかなる心性によるものであるのかを、皓月は理解できない。

 今までも、連珠の奧で、あんな目で見られていたのかと思えば、ますます落ち着かない。


 何か――危険な気がして、皓月は脳裏に焼き付いたそれを振り払うように、前を向いた。


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