紀第十三 香煙の奧に案ずれば

第四十八

「――くそっ。話が違う!! ――退け!!」


 少年を追っていた男達は、皓月に散々いたぶられ、何かごちゃごちゃと言いつつ、退却していった。

 久しぶりに思う存分に暴れてすっきりした皓月は、晴れやかに笑った。見回すと、先程の少年はすでに姿を消していた。無事に逃げ切っていれば良いが。


 ふと、何かを感じて皓月の動きがピタリと止まる。


(――新手か?)


 明かな害意を含んだ視線のようなものを感じた。油断なく辺りを見回すが、すでに殺気は霧散していた。


 剣指を下ろし、武器として持っていた簪を、手巾で丁寧に拭い、簡単に結い上げ直す。そして、攻撃に使った暗器を回収する。通りかかった者が気付かずに怪我をしてはいけない。最初に投げつけた簪を拾い上げ、その隣に木牌が落ちているのを見つけて、何となく持ち上げようとした時、影が落ちて顔を上げる。


 皓月は、そのままの表情でぴしりと固まった。そこには、今の今まで意識の彼方に忘れ去っていた、巫澂が立っていた。扇で顔を隠してはいるが、物凄く良い顔をしているのが、雰囲気から窺えた。


「突然駆けていらっしゃったと思いましたら。――驚きました。足がお速いのですね。まさしく風と申せましょう。武藝ぶげいにも通じていらっしゃったとは。颱の皇女教育というのは、くも多岐にわたっているのですね」

「い、いつから……いつから……見て……」

「『大の大人が子ども相手に寄ってたかって、とは』――位からでしょうか」


 ほぼ最初からである。皓月は眩暈がした。全くの自業自得だが、これまでの努力が水の泡である。


旣魄きはく……これは、……み、見なかったことにしていただけませんか……?」

「何をでしょう?」

「――全部です!」

「何故です?」


 心の底から、分からない、と言わんばかりの表情で首を傾げる巫澂に、皓月は目を逸らした。


「何故って……浩では、女が武藝を嗜むことは歓迎されないのでしょう?」


 巫澂は笑みを深めた。また、あの目だ。複雑で不思議な光を湛えた深い眼差し。


「浩人も色々ですから。言いたい者には言わせておけば宜しいのです。そういった輩は、結局のところ、何をしても悪し様に言うでしょう。縛られる必要はございません。そのお力も、誇るべき殿下のお力の一つですから。……まあ、油断を誘うために隠しておく、というのは戦略としては考えられましょうが」


 失礼します、と一言言うと、――走った時に落ちたのか、敵を蹴り倒した時か――いつの間にか落としていた笠を皓月の頭に載せ、身を屈めてその緒を丁寧に結んだ。吐息すらもかかりそうな距離感に、落ち着かない皓月は視線を逸らして、ありがとうございます、と小さく礼を言う。


「日も暮れてしまいました。そろそろ帰りましょう」

「そ、そうですね」


 巫澂について歩き出す。途端、幾つもの足音が、その場に響いた。巫澂が前に立ち、皓月を背に庇う。先程の男達が戻ってきたのだろうかと、巫澂の背中越しに見遣って、うんざりとした色を露わにした。


「こんな所に皇太子妃殿下がとは」


 この男、どこにでも現れるな、と皓月は内心毒づく。配下を引き連れて現れたのは、例の如くにきょう将軍だった。我が意を得たり、とでも言わんばかりの表情が無性に腹が立つ。その背後に、不安げな表情で立っているのは、さっきの少年だ。こういう時の対処法というのも、無論考えている。少々以上、力技だが。


「しかも、男と二人連れとは。――さすがは、い」

「喬将軍は誤解をなさっていらっしゃいます。この外出は、皇太子妃殿下が浩の国を学ばれるようにとの、皇太子殿下の御意向でございます。わたくしは護衛兼案内役としてご同行申し上げたまで」


 言葉を巫澂に遮られて、むっとしたらしい。


「口では何とでも言える。証拠は?」


 巫澂は懐から袋を取り出し、その中から何かを取り出して喬将軍に示した。


「皇太子殿下の命で発行された、出宮符です。皇太子殿下の御意向を示す、何よりの証拠でしょう」


 検めた喬将軍は得意満面から一転、投げつける様な勢いで、苛立ちも露わに出宮符を巫澂に返すと、また、礼もせずに去って行った。毎度毎度、無礼な男である。ただ、指摘するのも、面倒だ。

 残ったのは、皓月たちと、例の少年だけだ。皓月の視線を受けて、落ち着かなさそうに目を彷徨わせた。


「……あ、危ないと思って……でも。余計だった……?」


 どうやら、喬将軍を呼んだのは、皓月が少年を追っていた男共にやられるかと思ってのことだったらしい。確かに要らぬ世話だったが、少年にいうべきこととも思われなかった。代わりに、


「怪我は?」


と尋ねる。少年は首を振った。そのまま、言葉を探すように視線を彷徨わせる。ややあって、


「……で……助けたの……?」


 何で、助けたの?


 吐き出すように発した少年に、皓月は軽く返した。


「――助けて欲しそうな目をしていたから」


 言えば、少年は絶句して押し黙った。そのまま、面を伏せたかと思うと、無言で走り去っていった。


「――今回の件、皇太子殿下もご存知だったのですね」


 夕闇に姿を消した少年の背を見送って、皓月は巫澂に向き直った。


「報告しない訳に参りませんでしたので。申し訳ございません」


 それもそうか。重大な秘密を握られたというのなら、本人が知らなければ致命傷に繋がるおそれもある。


「いえ。お陰で助かりました。しかし、――よく皇太子殿下はお止めになりませんでしたね」


 それどころか、それを後押しするように出宮符まで用意してくれていたとは。ありがたいのだが。素直に感謝する気にもなれないのはなんなのだろう。


「皇太子妃殿下は勤勉で、誠実なお人柄。瑞燿の街を御覧になりたいとお思いになったのも、ただ書物からの知識だけではなく、それをしっかりと自身のものとなさろうとしてのことでございましょう。浩の地と人々に、向き合おうとなさっていればこそでございます。浩の者として、嬉しく思います。皇太子殿下も、その御心をお感じになったのでしょう」


 皓月は思わず俯いた。――学ぼうとしたのは、皦玲の真似をしようとしたからではなく、皇太子妃として、皓月自身も望んで取り組んできたことだった。皦玲ならば、と。それを殆ど考えずに取り組むことができたのが学問であったのだ。だからそれを認められるというのは、皓月自身を認められたも同じだった。


 武藝についてもだ。皦玲として浩に行くならば、隠さねばならぬ、と言われてきた。お淑やかな皦玲像を崩すわけにも行かない上に、女人が武術を学んでいることが知れれば野蛮と眉を顰められる国柄だからと。けれども、巫澂は隠さなくていいと言う。


 そもそも皦玲がどのような皇女かということは、浩はおろか、颱でさえ、傍近くに仕える者以外、殆ど知られていなかった。浩の地においては、颱の皇帝と皇女達、とざっくりひとまとめにされるばかりなのだから、皦玲像らしき皦玲像など、無いに等しい。

 

 寧ろ野蛮な颱の皇女という認識なのだから、武術を扱えるというのも、却って意外性のないことだったかもしれない。

 

 浩に来て以来、慎が、「皦玲だったら」と尋ねたとき、不満げだったことにも思い至る。おそらく彼はもどかしかったのだろう。皓月が、自縄自縛に陥っていたことが。


 これまで積み重ねてきたことが、浩に来たことで、全て無駄になった。

 そう思い込んでいた。

 けれども、そうではなかった。変わったのはただ、呼び名と身分だけ。

 あくまで表面的なことでしかない。皓月はずっと、皓月だった。そんな当たり前のことを、見失っていた。つんと、鼻の奥が痛んだのをごまかすように、皓月は口を開いた。


「ところで、喬将軍の件は偶然でしょうか?」


 この広い瑞燿で、少年がたまたま助けを求めたのが、喬将軍だったというのは不自然な気がする。それも、平時のあの傲慢な態度から、少年の訴えを聞いて、親切に助けてくれそうな者とも思われない。


「……あの方は、此度の同盟に最も反対していらっしゃいました。易王いおうをご存知でしょうか」

「わたくしと入れ替わりにたいへ向かった方ですね」


 現浩帝の異母弟である。“皦玲きょうれい”の輿入れは、同盟の証として行われたことだが、当然、人質としての意味もある。颱は“皦玲”を差し出し、浩は易王を差し出した。


「喬将軍は、易王と同門の兄弟弟子同士で親しい間柄です。彼自身名門の生まれですから。扱いには注意が必要です。あの方については、こちらにお任せいただいて宜しいでしょうか」


 そういうことか。これまでの喬将軍の自分へのとげとげしい態度の理由が漸く飲み込めた。


「わかりました。お任せします。――それと、旣魄。確認していただきたいことがあります」


 皓月には皓月で、やるべきことがあった。

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