第四十
* * *
「尚食様。以前も書面で抗議した筈ですが、東宮への配分がこれだけとは、一体どういうことでしょうか」
「東宮女官長様が直々のお越しとは、穏やかではありませんね。尚食局が職務を全うしていないとでも?」
雨霄の問いに、皇宮の医食を掌る尚食局の長官職にある女官は鷹揚に笑った。
東宮の食事に使用される食材は、皇宮と同等の品質維持・管理のため、基本的には尚食局を通すことになっている。皇太子妃の入宮に備え、今回、新たな官女や衛士を多数採用した。自然、消費する食材の量も増える。その為の申請の書類を出したのだが、どこかで誰かがそれに手を加えたのか、或いは尚食局で操作したのか、申請した分より明らかに少ない量しか入って来ないのである。
恐らく、綺麗に颱出身者分が計上されていない。始めは宮外から仕入れてまかなっていたのだが、数日もしないうちに取引を断られることが重なった。どう考えても、誰かが手を回しているとしか考えられなかった。本来、皇太子宮に入れられる食材の管理は家令の
それでも、皇太子や皇太子妃の御膳に不足が有ってはいけない。さらに、颱側の人々にそれと悟られてもいけない。体を動かす武官達の食事の量を減らす訳にもいかない。すると自然、雨霄を始めとする東宮の官女達の量を減らさざるを得ない。かと言って、信頼の置けない者にそうと悟られるのも駄目だ。仮にそういった者から他宮に知られれば、東宮内を治める能力が問われることになり、主に恥をかかせることになってしまう。調理法を工夫したり、食欲がないとごまかしたりしていたが、それにも限界がある。
「わたくしどもはそちら側でお出しいただいた書類に応じて手配しております。足りないというのならそちら側の不手際ではありませんか。それをこちらに責任をなすりつけようとは――」
わざとらしく涙を流してみせた尚食に雨霄は冷淡な視線を寄越す。
「修正の書状はもう何度も提出したはず。それでも変更されないのはどういう訳ですか」
「まあ。そうでしたか。残念ながら、わたくしのところには届いておりませんね」
「――尚食。それに東宮女官長も、一体どうしたというのです」
「恵妃様にご挨拶申し上げます」
雨霄と尚食、二人の声が重なる。拝礼をぞんざいに受ける恵妃に、雨霄はよりによって、と歯噛みした。恵妃は、皇太子に敵対する周貴妃と親しい。この状況、十中八九、碌な事にならない。
「尚食、そんなに涙を流して、どうしたというのです」
「お答えいたします。東宮女官長様が、ご自身の不手際を尚食局のせいだとお責めになるのです。尚食の任を拝してより、わたくしは命を懸けて、職務を果たして参りました」
尚食は切々と、いかに自分が皇帝陛下や貴妃を敬愛し、職務に忠実であるかを訴えた。
「――なんということ。東宮女官長。いかにそなたといえども、自身の不手際を他者になすりつけるとは言語道断」
「お言葉ですが、恵妃様」
「人に罪をなすりつけた挙げ句、言い訳をしようというの? ――誰か。この者を打ちなさい」
あっと言う間に恵妃の後ろに控えていた宮女たちが左右から雨霄の腕を押さえる。それから恵妃の傍にいた女官が、雨霄の前に近寄り、強かに頬を打ち据えた。
「――っ!!」
間髪入れず、今度は逆の頬を打たれる。
「なあに? その目。前からあんたのことは気に食わなかったのよ。いつも澄ましちゃって。あんな蛮族の皇女に肩入れして何になると言うの? まあ、寒門出の“
「わたくしは兎も角、皇太子妃殿下を愚弄するとは、無れぃ――っ」
耳元で囁いた女官に睨み返して言う途中で、また打たれた。
“点白女官”――それは、女官選抜において、教養においては及第点だが、家柄が良くなかったり、顔が良くなかったり、採用官に気に入られなかったなど、何かしらの問題があったが為に、名簿に白点を入れられ、皇宮の採用からは外された者を蔑んでいう言葉だ。この場合、余り人気のない――例えば陵墓や離宮、或いは罪を犯した皇族が幽閉される禁霊宮などに配属されることになる。
だが本来、女官の選定基準はまずもって「書に通暁」し、「健康である」こと。「貴賤を問わず」「容貌に拘らず」とまで布令にはわざわざ明記されているのである。
つまり、「白点」を付し、区別するなどという事は、本来は認められていない。
故に、その蔑称も、皇帝の前では決して言えない筈のものである。実力を重視して採用するという皇帝の意に背いているのだから。
「何よ、その目は!? ――恵妃様。この者は反省の色が全く見えません」
「まだ足りないようね。――もっとおやり、気絶するまでよ」
恵妃は、興味なさそうにそう言うと、くるりと背を向けた。止まぬ罵倒の声や打擲の音。遠のく意識の中、己ではない誰かのことのように、雨霄は感じた。
* * *
「やめなよ姫。今出て行って、これまでの努力を無駄にする気?」
誰だか知らない後宮の女官が、雨霄の頬を鋭く打ち据える音と、雨霄が苦悶の息を吐くのを遠くから見ていた皓月は、その女官を止めに入ろうとした。それを、慎のいつになく鋭い声が静止する。阿涼も眉を寄せつつも、「殿下、ご辛抱を」と、皓月を留めた。
「――っ……皦玲なら、どうする……?」
「あのお姫様なら、こんな状態になったら、何もしなくたって、周りが放っておかないでしょ」
皮肉げな声で慎は言い捨てた。
(その周りが、いないというのに――)
ここは颱ではないのだ。
様子のおかしい雨霄を探らせていた慎の先導で、密かに後宮にやってきた皓月は、散々に打たれている雨霄を助けに入りたい衝動を、歯を食いしばって耐えていた。
ここで、雨霄を表立って助けることはできない。まず何故、後宮に居たのかを問われるだろう。場所が場所だけに、誰かの招待もなしに潜んでいたとあれば、あらぬ疑いを掛けられたり、悪くすると正体を悟られたりする可能性だってある。慎を行かせる訳にもいかない。
安全を考えるならば、ここは動かないのが正解。理性的には、そう判断を下すべきだろう。
だが、現に自分の女官が目の前で打たれているのを見れば、胸は痛む。
一体、何故この様な事態に陥ったのか。女官は打擲の手を止める気配はない。
そうこうする内に、やがて、真っ赤に顔を腫らして気絶した雨霄を、物を放るように手を離し、女達は不愉快な笑い声を上げながら並び去った。ややあって、今度は宦官が二人、倒れた彼女を運んでいった。
それを、無言ながら食い入るような目で見つめる皓月の胸中には、かつて感じたことの無い、訳の分からない感情が、嵐のように吹き荒れているのだった。
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