第十
楽の音が響く中、妃嬪達の話し声で賑わっている。
「皇太子妃殿下のお成りです」
宦官が告げるが、おしゃべりの止む気配は無い。宦官も、これで自分の役目は果たしました、とばかりに素知らぬふうである。
これは、こちらから挨拶をしろということであろうか?
今回のような場合、身分の上の者が来たら、着座していた者は立ち上がり、拝礼または揖礼をし、上の者が着座してから、主催者が促して着座するのが作法である。賓客――この場合、皓月からの答拝は基本的には不要である。これは、颱も浩も変わらない筈である。
「――あら、いつの間にいらっしゃっていたのでしょう?」
「こそこそとして、まるで奴婢ではありませんか」
「あの真っ白な髪を見て。老婆みたいじゃない」
微かに耳に届いたのは、どう考えても歓迎しているとは言いがたい言葉だ。が、皓月は耳に入っていないかのように、微笑みを浮かべたまま、一切表情を変えない。
皓月は場をさりげなく見回し、交わされる会話を聞き取り、ふうん。と内心、冷めた目で眺める。
(これが浩の品茗会、か……颱人を相手に、なんとも……)
「皇太子妃。よくおいでになりました」
ようやく気付いた風に周貴妃が声を掛けると、すっと話し声が止む。この場で最も力を持っているのが誰であるかを誇示するように。
(この間といい、今日といい、敬称もつけずに呼ぶとは。皇后にでもなったつもりか)
皓月は藍衣を許され、殿下の敬称を認められた皇太子の正妃である。
皇族のみに許された藍衣を纏うころが許される女人は、現在浩国では皓月と、皇帝の妹であるという長公主のみ。
正室である皇后が不在である後宮の妃嬪たちは元より、皇帝の実の娘である公主達ですら許されていない。
巫澂によると、女性で藍衣が許されるのは、浩の慣例では皇太后、皇后、皇帝の姉妹である長公主、皇后の産んだ公主、皇太子妃のみ。
あとは、特別に皇帝の寵愛が深い公主や妃嬪が許されることはあるらしいが、現皇帝はただの一人にも許していないという。
皇太后と皇后は亡くなって久しく、故皇后が産んだのは現皇太子ただ一人で、公主はいない。
故に、身分だけで言ったならば、藍衣を許された皓月がこの場においては一番身分が高いということになる。が、身分というのも大きな力だが、それだけでは語れないのが現実というものである。
浩に来たばかりの皓月には、彼女達を相手にこの後宮という場で戦う“力”が欠けているのもまた事実。彼女達にとっては、颱という遠い脅威よりも、周宰相の娘である周貴妃という、近くの脅威の方が影響力が高いのは否めない。
「恐れながら、周貴妃様――」
「本日は、お招きありがとうございます」
皓月を庇ってくれようとしたのだろう。口を開いた雨霄を、皓月は遮った。浩の後宮が何を仕掛けてくるか、まずは見てやろうではないか。一先ず揖礼をして顔を上げる。またしてもクスクスという笑いが耳を突く。見れば、空いている席は一つも無い。無論、わざとだろう。余りにくだらない。
「……あら、申し訳ございません。すぐに準備いたしますわ。あとで準備をした者に罰を与えますのでどうぞご容赦ください」
「いいえ、わたくしのために罰するには及びません。誰しも失敗はございますもの。ただ、貴妃様の品格に疵が付かなければと存じます」
にこりと微笑む。嫌味の無い清潔な笑みだ。
「……年長の方に無礼を申しました。この程度で貴妃様のご威光が翳る訳がございません。お詫びにこちらをお納め下さい」
皓月は、出掛けに準備させた螺鈿細工を施した美しい箱を差し出させた。
誰のものともしれぬ息を呑む音が響く。そこに収められていたのは、皓月が故国から持ってきた最上級の白玉で作った
透き通らんばかりの透明感、雲海の湧き出るような奥行き、とろける蜜の如き潤い――これほどの質の白玉は、大陸では颱のごく一部でしか産出しない。颱の皇室で禁制をかけているため、浩ではまず見かけることのないものだ。
さらりとこんなものを取り出してきた皓月に、その背後にある颱の存在を感じたのだろう。ヒリヒリとした空気のなか、何人かが気圧された様に視線を逸らした気配がする。無論、これで相手が
「浩人は碧玉を最も好むと伺いましたが、貴妃様の輝くような美しさにはこの白玉も映えるでしょう」
「……このような貴重な品を受け取る訳にはいきませんわ」
貴妃は、落ち着いた様子で微笑んだ。しかし、その目は全く笑っていない。
「どうかご遠慮なさらず、お納め下さい」
「そうまで仰るのなら、皇太子妃の志をお受けいたしましょう――お掛けになって」
周貴妃のすぐ横に席を設けられ、茶杯が置かれる。が、勢いよく置いたせいで、中身が皓月の衣服の袖に懸かる。隣に座る周貴妃は避け、皓月だけに掛けるという器用な藝当。熱くはないが、度重なる無礼にそろそろぶち切れそうだ。ちらりと目線をやると、蒼い顔をして下がる官女が眼の端をかすめた。
「どうぞ、今日の為に特別に用意したお茶ですわ。ご賞味あそばせ」
「素晴らしい香りですね――これはもしや、歌州で産するという、あの
(別のものも混じっているがな)
何なら、その別のものが九火嘷本来のふくよかな香りを完全に殺している。それでもそうと皓月が分かったのは、他の茶器から漂う香りによってだった。勿論、他のものからはしない。
「……さすがは颱の皇女、その通りですわ」
皓月は躊躇いなく口に含んだ。途端、喉を焼かれ、咽せそうになる。が、何とか飲み込む。
「――なんとも刺激的な味わいです」
あくまで微笑む皓月を前に、貴妃は感情のうかがえぬ眼差しで微笑んだ。
「まあ、皇太子妃殿下。そのような――まことに深い味わい、心まで豊かになるようですわ」
「本当に、貴妃様の深いお心のようです」
「皆にそう言ってもらえるとは、こちらも心を込めて準備をした甲斐があるというもの」
「貴妃様の素晴らしいお心遣いに敬服いたしました。今後ともご教示くださいませ。――気分が優れませんので、これで失礼させていただきますわ」
微笑んで言い、ふらつきながら立ち上がる。目を伏せ、恥じ入るように俯く。
「まあ、それはいけません。どうぞこちらでお休みなさい。明日から斟の儀で北の離宮に行かれるのでしょう。無理は禁物です」
「お気遣い、痛み入ります。――そのお心のみ頂戴いたします」
「そうですか――大事なお役目、くれぐれも宜しく頼みます」
しれっと言い放った貴妃の目は、先日のあの蛇のようだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます