第二
先程は緊張していたので、余りよく気付きませんでしたが、……妙に暗くないですか? まだまだ真昼中だというのに、すでに夜かと思うばかりに暗いのです。
それもそのはず。見事な意匠を凝らした採光用の
夜中には、絶対一人では歩き回りたくはございません。絶対に、でございます。
そんなことを考えております内に、はや書房に辿り着きました。
蔵書の管理が足りていない、というのは誠でございました。
一体、どこからこれだけの蔵書を集めたのでしょう、と言いたくなるほどの本が、書房から溢れ出すほどに犇めいているのです。
書物と書物の間の僅かな隙間を縫うようにして、二人の宦官が書物を収めているのが見えました。そこへ、新たに運び込まれてくる書物。
当家も昔はそれなりの蔵書家であったそうですから、実家にはかつて豊富な書物を収めた書房があったと申します。しかしここは、書房というよりは、蔵書樓と申すのが正確でございましょう。本来ならば、皇太子殿下の居住域と思しき所まで、恐ろしきほどの書物、書物、書物の山なのでございます。
そして、その主たる皇太子殿下のお姿は、どこにもお見えになりません。
“引きこもり”と申します故、どこかに閉じこもっていらっしゃるのでしょうか?
これでは、どなたが、否、何がこの建物の主か、分かったものではございません。あ、……いえ、口が滑りました。
口に出ておりませんよね??
これだから粗忽者だというのです。然りとて、ふう。一先ずは、与えられたお仕事を誠心誠意、おつとめさせていただくのみ、でございます。
幸い、宦官のお二人と、書棚の影から姿を現した女官の
何しろ、片付けても、片付けても、次々と書物が運ばれてくるのですから。恐ろしいことには、その全てに、皇太子殿下は目を通されているらしいということでございます。
それは、この書房に収められた書物のうちの一冊を、手当たり次第に広げてみれば、すぐに分かります。
朱墨で句点*が施され、ばかりか、悠然とした、それは見事なご筆跡で、所々に注釈やら校記やらが丁寧に施されているのです。先輩方にお伺いしますと、それこそが皇太子殿下の御筆跡なのだそうです。
あまりにもお姿をお見せになられないので、実在するかどうかも謎だというお話でございましたが。どうやら、実在する御方であるというのは確かなようでございます。
後で教えていただきましたが、現在は空の、皇太子妃宮に架かっている「玉泉宮」の扁額も、皇太子殿下の揮毫によるものとのこと。確かに、扁額に見える点画の特徴など、書物に施された注釈の字との一致がみられました。
書物に施されたこれらの記述、一つひとつを辿って参りますと、拝謁の栄に浴したことは非ずとも、その優れた叡智や深い学識などが窺われるようでございます。
例えば、歴代の大学者が解釈に頭を悩ませてきた字句について、現行本に欠けた語があるのを理路整然と指摘し、鮮やかに解釈なさったところなど、間違いなく大発見でございます。
……などと思いながら、蔵書をちらりとでも見てしまいますと、すっかり引き込まれてしまいまして。先輩方も、同じようでございました。蓋し、書物の整理が進まないというのは、この所為なのやもしれません。
分類の仕方は、四部分類というものでございますね。
経部(経書及びその注釈書など)、史部(史書や地理書、公文書など)、子部(諸子百家の書物や
題を調べて、すでに分類された後のものでしたら、然程の労力ではありませんけれども、初めて目にするものも多く、内容をしっかりと精査して分けるとなると、それなりに骨が折れます。
とはいえ、ここに収められているのは、恐ろしい程の学問成果の集積でございます。そのことに気付いているのは、現状、ここに集ったわたくしどもだけなのでございましょう。……などと思いますと、身の引き締まるような思いも湧いて参りまして、落ちぶれたとは雖も、私も矢張り、学者の家の娘だったのやもしれません。
兎にも角にも、私の東宮での官女生活は、斯くしてはじまったのでございます。
宮女の墓場、などと伺い、身構えておりましたけれども、想像以上に、こちらでの宮仕えは快適なものでございました。
個室だというのもあって、直接関わりのある方としか接しませんし、皆さんとてもよくしてくださいます。引きこもりの皇太子殿下に遭遇するようなことも無いので、高貴なご身分の方のお怒りを買うことに怯えることもなく。
仕事は大変充実したものでございました。
勿論、光があれば闇もあるもの。
私の如き末端の者の食事にまで、銀の箸が用いられてあることの意味を理解した時には心底ぞっといたしました。必ず確認しながら食べるようにとの由でございます。
皇太子殿下が東宮にお住まいになられた当初、その御膳が下げ渡された際、何人もが忽ち泡を吹いて倒れたらしいというのも、単なる噂ではございますまい。お役目の者以外、厨房への立ち入りを固く禁じておりますのも、そういうことでございましょう。数日間は、それこそ、食べた気が致しませんでした。
しかし、人というのは、良くも悪くも、慣れる生き物でございます。
『浩典』に依りますと、東宮内官は、
通常2名を置くはずの司閨を、お一人で引き受け、その上でやはり、2名置くはずの司饌のお仕事までこなされていらっしゃる。つまり、4人分のお仕事をお一人でなさっていらっしゃるのですから。その激務の程が窺えようというものでございます。私も、こちらではまだほとんど見習いに過ぎませんが、少しでも早く、戦力となれるよう、精進する所存にございます。
さて、本来、内政をとりまとめるのは、皇太子府でございましたら、当然、皇太子妃様ということになります。皇太子殿下も、旦という国から姫君を妃としてお迎えになったと言いますが、程なくお亡くなりになったとのことで、現状、空位なのでございます。おまけに、妾の一人もいらっしゃらないそうで、皇太子妃宮を始め、妾の方々が住まう四殿舎もすっからかん、だそうです。
皇太子妃様がいらっしゃれば、この東宮府も多少明るくなるのやもしれませんが……。
お亡くなりになった皇太子妃様は、穏やかで、大層お優しい方だったそうです。
そんな方にでしたら、私どもも心穏やかにお仕えできるのやもしれませんが。
とはいえ、一国の皇太子殿下がいつまでもお独りという訳にも参らぬでしょうから。服喪期間も過ぎておりましょうし、遠からずまた、どなたかがいらっしゃるのでしょうね。
穏やかな方ですと、嬉しいのですが。
しかし、この皇宮で生き抜くためには、それだけでは難しいのやもしれません。されど、具体的にどんなかたが適任か。私の貧弱な想像力では、その具体的なお姿は思い浮かんで参りません。それ以前に、しがない宮人風情が云々するのはやはり、僭越と申せましょう。
*
その日、書物を運んでいらっしゃったのは、
「こちらをお願いいたします」
相変わらず皇太子殿下は、居所である筈のこの昇龍宮の中、気配すら感じません。本当に、一体、どのように日々をお暮らしなのでしょうか。
皇太子としての政務は、この巫澂様を通してなさっているとのことでございましたが。
「お預かりします。巫澂様。先日はありがとうございました」
「ああ、貴女は。――こちらには慣れましたか」
「はい、皆様よくして下さいます」
「それは宜しゅうございました」
巫澂様の声を聞きつけて、宦官の先輩お二人も、こちらにいらっしゃいました。巫澂様にご挨拶しますと、新しい書物を受け取って中へ引き返していきます。
巫澂様のお手元を見ますと、大量の書状を携えていらっしゃいます。いくつか束ねて札が付いているので、きっと、これから各部署へと回すのでしょうね。
「女官長様から、東宮府へは巫澂様が推挙して下さったとお伺いしました。ありがとうございます」
「ああ。――巫官の
「はい、今年の斟の儀でお会いしました」
「巫瑩は小官の部下です。大変お世話になったと伺っております」
毎年行われている斟の儀。今年は第四公主様が司水にお立ちになられました。普段
一体何が公主様のお気を損ねたのか。その巫瑩という方を、公主様と女官達が酷くお責めになったようでございました。私が見たのは、すでにふらふらになった状態でしたから。具体的に何をされたのか迄は存じ上げませんでしたし、お聞きするのも憚られました。
ただ、医官の元にお連れしたまででございます。その時のことを、恩義に感じていただいてくださったのですね。却って、こちらが大きな恩恵をお受けした気がして申し訳ないようでございます。
そんなこんなで、東宮府での日々は過ぎ去り、概ね書物の整理も一段落し、少しずつ他のお仕事も任せていただけるようになった頃のことでございました。
――新たな皇太子妃様の決定が知らされましたのは。
――――――――――――――――――
【ご挨拶】
お読みいただきまして、誠にありがとうございます。
また、♥やコメントも、ありがとうございます。大変励みになっております。
上下くらいで収めるつもりだったですが、申し訳ございません。続きます。
本当は、今話で皓月を出すつもりだったのですが(予定は未定)。
一人称視点が思いの外、たのしくなってしまいまして。
引き続き、宮女から見た皇太子宮の様子などをお楽しみ頂けたら幸いです。
昊国秘史〈巻一完結〉~元皇太女、敵国皇太子に嫁入りす~ 宵 @xiaoye0104
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