第三十八

 高木の枝に引っかかって揺れる紙片を見上げ、皓月はこめかみに手を当てる。


 こんな時、皦玲ならどうするだろう。考えて、そっと眉をひそめる。皦玲だったら皓月のようにこうやって一人でうろつくことなどまずない。そして本人が何かしようとせずとも、周りの誰かが何とかしたことだろう。だが、皓月は今、一人でここまで来た。誰かに頼ろうにも、頼める者などいない。


 皓月はそっと周囲を見回す。誰も居ないのを確認すると、そびえる木を見上げた。


 金緑の瞳が、力を帯びて輝く。

 足もとから風が立ち上り、皓月の身がふわりと浮かび上がった。


 紙片の引っかかった枝まで一気に飛び上がって着地する。樹齢数千年とも思しき威風を漂わせる巨木の枝は、皓月を受け止めて小揺るぎもしない。颱ではまず見かけることのない隆々たる威容は、木気の漲る青龍の地なればこそか。


 目当ての紙片を手に取ってみたが、なんということはない白紙だった。が、見る限りは新しいもののようだ。重要なものではなかったことにほっとして、また挟み直す。


 改めて辺りを見回すと、この木が御苑内では一番高い木らしい。五色の花々が乱れ咲いて風に靡き、木々の葉は青青とそよぎ、奇岩怪石が随所に配置され、清流のせせらぎに鳥の声と、護花鈴の音とが響く。


 上から見ていると、千変万化し、計算尽くされた苑の構成の妙がよく窺えた。御苑を管理する園丁も、こんな位置から眺められることなど想定していなかっただろうが。


 通り抜けていく風が心地良くて、座り込む。こんなところに、まさか颱の皇女が一人でいるなどとは誰も思うまい。目の前の風景と風の心地よさから生じた開放感に、皓月はしばしそこで先程の書物を繙くことにした。藍色の上衣を脱いで枝に掛け、その上に座り込む。


 読んでみると、同じ花や草木でも、様々な呼び方をするものが多くあり、季節によって呼び方が変わるものもある。また、同じ名を持っていても、颱と浩とで全く別の植物であることもあり、ますます混乱を誘う。だが、その花や木が象徴する意味や、なぜそのように考える様になったのかを知るのは興味深いものも多い。浩人の考え方や発想を知る手がかりにもなった。巫澂がこの本を渡してきたのも、それを意図してのことであったか。


 水の跳ねる音が聞こえて、皓月は顔を上げた。池の鯉か。気付けばいつの間にか風が少し冷たい。日も傾き始める頃だ。そろそろ戻ろうと、また辺りを見回して、木から飛び降りる。


 突如、再び水の音を立てて、視界の端にあった池の水が盛り上がった。


「――!?」


 白地に銀と青の刺繍の入った優雅な衣が目に入る。大量の水滴を地面に撒き散らしながら、一人の男が池の中から出てきた。その目と目が合う。


「――花仙……?」


(……何を言っているんだ、この男は)


 だが、その勘違いを訂正してやる気はない。呆然とした風に皓月を見上げる男の前にふわりと降り立つ。黒みを帯びた深い青色の髪をこざっぱりと結い上げた額の、端正で凜とした風貌は、見るからに皇族。


 皓月は、無言で男に近寄り、意識して柔らかく微笑んだ。


「あなたは……」


 男の言葉は、続かなかった。皓月の腕が男の顎を突き上げて倒し、一撃で気絶させた。そして、その場から悠然と歩き去った。腕に掛けていた上衣と披帛肩掛けとを歩きながら着直す。


「おや。今日はこんなところにいらっしゃったんですねぇ」


 げんなりして見遣れば、いつも通りのヘラヘラ顔で、思った通り、尚王が立っていた。


(一体、どこから湧いて出てきた……)


「さっき玉泉宮に参りましたらお留守だと伺いまして」

「それは、――申し訳ございません」

「いえいえ。私が勝手に押しかけているだけですから~」


(――本当にな)


 貼り付けた微笑みの裏で、皓月はそっと毒づいた。


「おや、仙紫客ですか。良くお似合いですねえ」


 皓月の髪に挿した花を見て、尚王が言った。音楽にしか興味の無さそうな尚王から、花の名前が出てくるとは意外である。


「ありがとうございます、尚王殿下。……親しくして下さるのは大変ありがたいのですが、余りに頻繁にいらっしゃられては、御政務にも影響するのでは」


 言うと、尚王は破顔した。


「ああ、大丈夫ですよ。ちゃんと片付けていますから~」


 配下が、と言外に聞こえた気がするのは気のせいだろうか。


「ですが、中には邪推する者もおります。もう少し、行いをお慎みになられた方が」

「つまり、皇太子妃殿下は、私を心配してくださっているのですね! 嬉しいです」


 この男、――圧倒的に、言葉が通じない。頭痛を感じてこめかみを押さえる。


「おや、盈忈えいじん。久しぶりだね」


 皓月の背後に視線を移して言った尚王に、皓月は振り返った。


「……異母兄上あにうえ。お久しゅうございます」


 美しく揖礼をして挨拶をしたのは、先程の男だった。想像以上に回復が早い。皓月は尚王の後ろへ下がった。


 落ち着いた挙措は、寧ろ彼の方が年上のような印象だが……。尚王が盈忈と言っていたからには、即ち彼が恭王なのであろう。つまり、彼がこの間、尚王妃と……確かに女人に好まれそうな顔立ちではある。


「面倒な挨拶なんていらないよ。兄弟じゃないか」

「あ……ありがとうございます、異母兄上」

「夢でも見た様な目をして、どうしたんだい? ――お前のことだから、仙女でも見たの?」

「――こちらは?」


 茶化すような尚王の言葉には答えず、恭王は落ち着き無く皓月へ視線を寄越す。尚王の背後にいるのが彼の妃ではないのは、恭王は勿論、よく分かっていることであろう。


 結局こうなったか、と心の中で盛大に息を吐いた皓月は、一瞬で腹を括った。


「ああ。こちらは我らが兄君、皇太子殿下の妃殿下だよ。お前は初対面かい」

「はい。お初にお目に掛かります。皇太子妃殿下、皇太子殿下の異母弟の水逾すい・ゆ。字を盈忈と申します。」

「……お初にお目に掛かります。恭王殿下」


 先程の件に向こうが触れてくる気配は無い。皓月も、敢えて口には出さない。出会い頭に張り倒されたたなどと、口外したいとは思わないだろう。が、こちらを見つめたまま黙りこくる恭王に、首を傾げる。


「盈忈。皇太子妃殿下の想像以上の美しさに驚くのは分かるが、無礼だよ」


 うん。だれの言葉だ? などと、耳を疑ったが、確認しなくても勿論尚王である。


「大変失礼いたしました。御髪の仙紫客の如き清雅な美しさに圧倒されてしまいました」


 恭王は、爽やかに微笑むのだったが、その瞳に潜む“何か”に、皓月は、ひっそりと眉をひそめた。

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