第51話 クセイル占領
けれど、ベリアルの準備はなかなか進まなかった。
火薬がない。弾丸もない。輸送手段の馬はおろか、ラクダさえ圧倒的に足りない。クセイルに着いたら、すぐに砦を造りたいのに、人手もない。連れて行く医師もいない。
すべてが無い無い尽くしだった。ベリアルは八方に手を尽くした。どうにもならない。ケネのドゼの元へ、武器や資材を送ってくれるように頼んだが、何も送ってこない。もともと、彼の手元にもないのだから仕方がないのだろうが。
ベリアルの催促に対し、ドゼからは、紅海を航行するイギリス船が2隻確認された、出発を急げという木で鼻を括ったような手紙が届いただけだ。
どこまで本気なのかわからないが、これ以上遅れるようなら、代わりに自分が言ってもいいとまで、ドゼは言ってきた。
暑い中を、物資や人を集める為に四方八方に奔走しているベリアルの元へ、参謀長のドンゼロットがやってきた。
「クセイル遠征は、俺が行くことになったよ」
ベリアルは唖然とした。
「なんで?」
「さあ。ドゼ将軍の命令なんだ」
ベリアルは実直なドンゼロットが好きだった。彼がクセイル遠征の司令官に命じられたのなら、困らせたくなかった。
しかし、どうにも腹の虫が治まらない。一度命じておきながら、理由もなしにドンゼロットに挿げ替えるなんて。
怒りに燃えて、彼はケネまで馬を飛ばした。
「クセイルには、大砲を持ち込み、砦を修理し、病院を設置する必要があります。こうした見識が見当違いだとは思ってもみませんでした!」
河べりをそぞろ歩いていたドゼを捕まえ、ベリアルは喚いた。
「そりゃ、私には貴方ほどの軍事的才能はありません。でも、私にだって、名誉を重んじる気持ちってものがあります」
ドゼは目を丸くした。
「ベリアル将軍じゃないか。いったい何を君は言ってるんだ?」
「貴方ですよ! 弾丸も砲弾も、ラクダも人も全く送ってくれないでどうしろと? 仮にクセイルを占領できたとして、その後、どうやって治めろっていうんです?」
それはまさに、ドゼがボナパルトに送りつけ続けた要求だった。上エジプトからカイロへと。
ボナパルトからは何も送られてこない。ドゼはそれを受け容れるしかなかった。けれどベリアルは違う。
「それなのにあなたは、俺を司令官から外すという。クセイル占領が自分には無理だと思ったのなら、そして、この任務を離れることは臆病者のすることだと考えていなかったのなら、俺はとっくに軍に辞表を出しています!」
「じ、辞表?」
ドゼの声が裏返った。
「待ってくれ。落ち着いて、ベリアル将軍」
ドゼの動転は、ベリアルにしてみれば、怒りに油を注がれたようなものだ。
「貴方が何も送ってくれないから、私は必死で物資を集めていました。それなのに貴方は、俺には熱意が欠如していると言う」
「あの手紙か! 俺が送った……」
速く出発しろと急かしてきたドゼの手紙は、いかにもぶっきらぼうで不機嫌だった。
上官というものは、作戦が成功しないことを恐れ、部下に無茶な圧力をかけるものだと、ベリアルは腹が立った。部下は死に物狂いで上官の指示を遂行しているというのに。
ドゼはため息をついた。
「困ったな。俺は君の熱意を非難したわけじゃないんだ。クセイル近辺にイギリス艦が2隻現れたことは書いたよな。幸い、地元のアラブ人が協力しなかったせいで、イギリス人どもは上陸できなかった。けれど、いつまでも彼らに頼っているわけにはいかない。と、言いたかっただけだ」
「へえ、そうですか」
「そうだよ! 俺は、自分が尊敬し、愛する人には、何も隠さない。だが、そうでない人には、もっと控えめに、必要なことしか書かない。前にも言った。君は、この遠征で最初に親しくなった人だ。なあ、ベリアル将軍。君の目は、まだ治っていないんだろう? クセイルに行くには、砂漠を横切っていかなくちゃならん。君にはきついんじゃないかと思ったんだ。だから手紙で、俺が行こうかと申し出たんだ。俺は健康だからな」
「俺の目は問題ありません!」
「君のその自信には魅了されるよ。ちゃんと見えて、歩けるんだな?」
「もちろんです!」
力いっぱい、ベリアルは肯定した。
「君の熱意を称賛する。俺の態度が、少しでも君を苦しめたのなら、本当に申し訳ないことをした。許してほしい」
ドゼはすっかり悄気返っていた。上目遣いにベリアルの様子を窺う。
「世界で俺ほど君に献身的な人はいないと確信してくれ。 怒らないで、平和に生きよう。争ってはダメだ。 人は、調和と友情の中で生きるように作られているんだから」
ドゼは微妙に隠そうとしていたが、彼の様子はベリアルへの好意に満ち溢れていた。さしもの怒りも治まっていくのをベリアルは感じた。
彼は、クセイルには同行するが、平定後の指揮権はドンゼロットに譲ることを、改めて了承した。
◇
砂漠の横断には4日かかった。アラブ人は、馬車や騎兵を物珍し気に眺めた。彼らは徒歩で移動することが多かったからだ。
ドゼから要請が入り、地元の酋長達が、水場や、キャラバンの宿泊地を案内してくれた。
無事にクセイルに到着した一行は、難なくこの地を占領した。
「クセイル、この重要な点を占領したことにより、私の願いは全てかなえられました。かつてソロモン王とセンウセレト1世(*1)の船団が、サンゴ礁の間を通り過ぎて行くのを岸辺から見ていた人々の子孫のおかげで、フランスの国旗は、スエズからクセイルまでのアラブ人に歓迎されました」
ドゼはそう、カイロへと報告を送った。
またこうも書き残している。
「私はすべての部族が一緒に暮らすのが好きだ。 統治には 2つのシステムがある。ひとつはマムルークのシステムで、絶え間ない分断によって住民を弱体化させ、その結果、常に彼らを武装させること。もう一つは、平和だ。エジプトの住民を文明化し、遊牧ではなく可能な限り農業的な生活をさせることが望まれる」
数千年の歴史で、エジプトの民は初めて、自分たちの税を公共の福祉の為に使うことを覚えた。
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*1 センウセレト1世
古代エジプト第12王朝の第2代ファラオ
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