第22-2話 ファユーム統治


 セディマンで勝利を飾ったにも関わらず、カイロからは何の音沙汰もなかった。


 カイロからの補給は途絶えていた。武器弾薬はおろか、もはや食料さえ手に入らない。加えて、味方の兵士の半数ほどが失明していた。ユセフ運河で冷水浴をしたことにより、眼病に感染したのだ。ドゼもまた、目が見えなくなっていた。彼は、失明した他の兵士らと一緒の舟に乗せられて移動した。(*1)


 ナイルの洪水で運河はもはや通行不能、泥の中に軍は孤立していた。ボナパルトは、カイロ入城がナイルの洪水の時期にかからないように砂漠の行軍を急がせたくせに、そのことをけろりと忘れ、ドゼ師団を送り出した。今は、ナイルの洪水シーズン真っ盛りである。


 ドゼが副官を呼んだ。


「ボナパルト将軍に手紙を書く。俺がしゃべるから、サヴァリ、書き取ってくれ」

「前のお手紙はどうなりました? さぞやお褒めの言葉が届けられたでしょうね」

「返事は来ない」

「え!? セディマンの勝利を知らせたのにですか?」

「俺の書いた手紙への返事は来なかった。だが、ボナパルト将軍から、現状を知らせろと催促が来た。だから、報告をせねばならない。いいか、始めるぞ」


 ぼそぼそとドゼは、口述を始めた。


「私は喜んで敵の追跡を続けますが、実際には現時点では非常に困難です。浸水により付近の村々から切り離され、食料を得ることもできません。運河はもはや航行不可能で、目の病気のせいで、私自身、大いに困惑しています」


 ちらりとサヴァリは上官を見上げた。ドゼの目は赤く腫れあがり、酷く痛むのか、ひっきりなしに触ろうとするのを、危ういところで自制している。困惑などと言う生易しい状態ではない。


「目の病気は本当に恐ろしく、1400人の兵士を戦闘不能にしてしまいました。私たちは事実上、裸で、靴もなく、何も持っていない。兵士たちは本当に休息を必要としています。物資と手段を与えてください。そうすれば前進できます。私たちはいつだって貴方の命令に忠実に従ってきました。ですが、今のこの状態をご理解ください。貴方は私に何をしてほしいのですか?


 ……いや、最後のは消してくれ」


「私に何を……の一文ですか?」

「そうだ。消したか?」

「……はい」


 しかし、サヴァリは消さなかった。

 それが上官の口からこぼれ出た本音だと理解したからだ。


 素知らぬ顔で彼は手紙を巻き、伝令を呼んだ。



 さしものボナパルトも、これ以上、無視を決め込むことはできなかったとみえる。

 しかし、補給物資は届かなかった。

 ボナパルトからは、師団に休暇を与えると言ってきた。休暇の間、ファユームの統治を許可する、という。統治とは、要はミリを取ることだ。不足している食料や馬を、地元住民から取り立てよ、というわけだ。


 ファユームからはすでに、ムラド・ベイが大量のミリを取り立てていた。その上での、フランス軍の課税だ。

 怒りが、オアシスファユーム全体に広がっていった。


 折しも、カイロで蜂起が呼びかけられていた。狂信的なイスラム教徒らが地元の農民を唆した。暴徒の群れは膨れ上がる一方だ。



 幸い、ドゼの目は、セディマンの戦いから間もなく、回復した。

 目が見えるようになると、彼はさっそく、アルシノエやモエリス湖など、ファユームのあちこちの訪問を始めた。(*2)


 師団長が出かけてしまい、州都メディネット・エル・ファユームの駐屯地は閑散としていた。短い期間でここには病院が造られ、怪我や病気の兵士達が収容されていた。そのほとんどが、眼病だった。ドゼと同じく、伝染性の眼病にやられたのだ。


 夜半、大部屋に並んで横たわっていた眼病患者の一人が目を覚ました。


「来る」


 彼は銃を手に飛び起きた。

 飛び起きた戦友の気配に、数人の兵士も起き上がり、銃を構える。いずれも、眼病を患った兵士達だ。


 次の瞬間、ドアが叩き壊され、大勢の暴徒たちが雪崩れ込んできた。

「アッラー、アクバル!」


 叫ぶ暴徒たちに向かい、連射が浴びせられる。


「左だ! 左斜め前35度!」

「右へ逃げた! 真横だ!」

 片目だけ見える兵士達が、銃を構えた全盲の戦友に指示を飛ばす。


 病室に入りきらないほどの数の暴徒は、あっという間に撃ち殺され、あるいは仲間の死骸を置き去りに逃げ去っていった。



 一夜明け、駐屯地メディネット・エル・ファユームから師団長ドゼへ伝令が走った。


 「……そうか。一人も犠牲者が出なかったか」

深い安堵のため息をドゼはついた。

「古代の遺跡など見物している場合じゃなかったですね」

 ずけずけと副官のクレモンが言い放つ。

「馬鹿を言え。ボナパルト将軍の遠征の主眼のひとつは、エジプトの遺跡の研究なのだぞ。その為に、遠征隊は多くの学者を連れて来たのだ」

「そうですか。私はてっきり、エジプトを植民地にしに来たのだと思ってましたよ」

「もちろん、一番大きな目標は、イギリスを叩くことだ。地図を見ておけ、クレモン。インドからイギリスへの補給を断ち切るには、エジプトを抑えることが一番なのだ」


 尊大にドゼは言い放ったが、その態度はどこか疚しげだった。


 なんにしても、犠牲者が出なくて良かったと、もう一人の副官サヴァリは思った。

 駐屯地の病院で眼病の兵士らが死闘を繰り広げた日に、師団長が遺跡見物していたなどということがわかったら、どうにも格好がつかない。もっとも、サヴァリはその日の師団長ドゼの行動を隠蔽する為に、全力を尽くすだろうけれど。



 その自覚はなかったが、ドゼ師団は、ボナパルトのいる首都を守った。ファユームからの暴徒が加わったら、カイロの蜂起は、より大規模なものになり、蜂起の予兆を全く掴んでいなかった首都の犠牲者も増大していただろう。

 そのカイロからは、相変わらず、何も言ってこない。かといって、このままファユームから税を取り立てるのは危険すぎる。物資は不足し、相変わらず軍の1/3は眼病に罹っており、まともな戦力となりえない。


 「Sauveスーヴ qui peutプー.」

溜息にも似たつぶやきが、ドゼの口から洩れた。


 勝利したにもかかわらず、彼は、兵士を始め、市民、地元の協力者を含む全てをまとめ、ファユームの州都メディネット・エル・ファユームから撤退を始めた。

 ナイル河岸のベニ・スエフに到着すると、そこに軍を残し、ドゼは自らカイロへと、増援と援助物資の要請に出かけた。


 




 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


*1 眼病

伝染性の眼病。膿が出て、針で刺されたような痛みがある。オフサルミア《エジプト眼炎トラコーマ》。



*2 アルシノエ、モエリス湖

アルシノエは、プトレマイオス朝の王妃アルシノエ2世を指し、この時代に造られたピラミッドが多くある場所を、古くはアルシノエと呼んだ。モエリス湖は、古代にあったとされる淡水の湖で、この場合は、運河を指す。


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