カイロ蜂起

第23話 騒擾の気配


 カイロ。

 ディヴァン(*1)の家から出て来たボナパルトは、一群の人々に囲まれた。みすぼらしいなりをして、中には裸に近い者もいる。


 ……物乞いか?

 高潔で気前のいい異国の将軍を演じるべく、ボナパルトは懐へ手をやった。


 それにしては、様子がおかしい。媚びた態度は微塵も見られず、憑かれたような目をしている。

 低い声で、彼らは何事か口ずさんでいた。


「この人たちは何を言っているのだ?」

 後から出て来たカイロの行政担当者ディヴァンを振り返り、ボナパルトは尋ねた。

「将軍様を称賛しているのでございます」

恭しくディヴァンは答えた。

「それにしては、独特の節回しだが。まるで祈りのように聞こえる」

「将軍様の健康と幸せを、彼らは祈っているのでございます」

「そうか」


 ボナパルトは納得した。懐からなにがしかの小銭を取り出し、薄汚れた手に握らせようとした。

 ところが彼らは、ボナパルトから何一つ受け取ろうとしなかった。相変わらず、焦点の定まらない目をして、祈りの言葉を口ずさみ続ける。

 まるで呪われているようだと、ボナパルトは感じた。




 馬車に乗り、異国の総司令官が走り去ってしまうと、ディヴァンは太いため息をついた。

 さきほど異国の将軍を取り囲んだのは、カイロの狂信者たちだ。彼らが唱えていたのは、将軍を寿ぐ言葉などではない。

 あれは、コーランだ。


 ディヴァンは知っていた。

 カイロの、特に下層階級の民は、フランス人に怒りを抱いていた。


 カイロに駐屯したフランス兵は、カイロの女性たちにだった。彼らに感化された女性たちは、ベールもつけずに通りを歩くようになっていた。

 自分の妻は、娘は、まるで、フランス人の所有物のようではないか!

 カイロの民は激怒した。

 さらに悪いことに、フランス人たちはバザールやモスクに居酒屋を開き、ワインを持ち込んだ。

 信じられない暴挙である。


 民らの不満を、カイロから追い出されたマムルークやパシャ(*2)の使者が煽った。

 さらにイスタンブールのトルコ皇帝スルタンが聖戦を呼びかける。


 ひそかに銃が配られ、1日に5回、ミナレット(イスラムの塔)の上から反乱起こすよう、檄文が流されている。


 小さな騒擾も起こった。


 それら一切に、あのフランスの総司令官は気がついていない。

 全く不思議なくらいだ。

 あの将軍は、口では民との融和とか、イスラムの尊重とか言っているが、しょせんはその程度なのだ。彼は何も見ようとしない。自分の野心の他には。


 カイロの叛意を、もちろんディヴァンは教えてやるつもりはない。


 近く、大きな蜂起が起きるだろう。それらは、狂信者たちが起こすものだ。裸に近い格好で祈り、托鉢で生きている彼らは、馬飼いや売春あっせん業者など、カイロの下層階級の民に尊敬されている。蜂起を担うのは、彼ら狂信者と下々の民だ。


 ディヴァンたち中・上流階級は、一切、手を出すつもりはない。かといって、蜂起を止めるつもりもなければ、フランス軍に警告してやる義理もない。


 たった今彼は、フランス軍への融資を認めさせられたばかりだった。前回は、輸出用の小麦を軍へ販売することを強制させられた。

 自らの手を汚さずに、フランス軍を追い払えることを、ディヴァンは願った。






 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 ディヴァン

エジプトの地方行政官。評議員。


*2 パシャ

軍の高官、官吏



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