第22-1話 セディマンの戦い


 タムタムと、奇妙な太鼓の音が聞こえる。赤や金、色鮮やかな異国の衣装に身を包んだ兵士らが馬に跨り、こちらの様子を窺っている。彼らは、丘の上に布陣していた。さながら、豪華な絨毯を敷き詰めたように見える。


 敵の数は、少なく見積もって、ドゼ師団の6倍はあると、ベリアルは踏んだ。


 すぐに、二つの方陣を組んだ。ぎりぎりまで敵を近づいておいて、撃つ。これが、方陣のやり方だ。言うまでもなく、火薬や銃弾は乏しく、ボナパルトからの補給は滞りっぱなしだ。少ない武器弾薬を無駄撃ちしないための手法だ。


 太鼓の音が止んだ。

 乾いた空気を揺るがせて、雄叫びが上がる。

 華やかな衣装を翻し、丘の上から、マムルークの騎兵軍が駆け下りてきた。


 「馬鹿者! さっさと撃たんか! ヴァレット! なぜ発砲命令を出さない!」


 2つの方陣の間で馬を走らせていたドゼが、左の方陣の指揮官、ヴァレット大尉を叱りつけた。

 敵の先頭は、すでに目と鼻の先まで迫っている。若いマムルークが、浅黒い肌に白い歯を剥き出して、にやりと笑った。馬の吐く息が届きそうな距離だ。


「もう少し。もう少し待つんです、将軍!」


 応えたのは、方陣の外側で身を屈めていた歩兵だった。彼は、後列の猟兵が構える銃をその肩に担っている。安定して照準を定め、狙撃できるように。

「一発だって、無駄にはできねえ。敵が20歩の距離に近づくまで待たにゃ!」

「感心できんぞ。全く、感心できん!」

 この期に及んでなお、ドゼは味方の兵士が無事であることを優先していた。


 蛮族の切り込みは大変なスピードと迫力だった。大きな半月刀が、強い日の光を受けて、ぎらりと輝く。馬に乗った敵が襲い掛かってきた。

 右の方陣で、一斉に射撃が始まった。マムルークは、砂塵を上げて、左右両方の方陣の間に突進してきた。


「撃て!」

 ドゼに叱責された故か。ヴァレット大尉の命令は、いささか、元気がなかった。


 激しい銃撃が始まった。

 先頭を走っていたマムルーク兵が、理解できない、という顔をした。一瞬の後、彼は落馬した。至近距離から発射された銃弾が命中したのだ。


 続く騎兵が剣を振り上げ、方陣の人垣目掛けて振り下ろした。乾いた空気に、ぱっと血しぶきが上がる。

 切りつけられた兵士はすぐに、陣の中央に引きずり込まれ、代わって、後列の兵士が前へ出てきて隣の戦友と肩を組んだ。


 やはり、砲撃が遅すぎたようだ。マムルークの兵士がヴァレット大尉の方陣に突撃、これを突破した。小さな方陣に間隙ができた。


 その瞬間、命令令も出ないうちに、兵士たちは一斉に地面に倒れ伏した。


「砲撃!」


 ほぼ同時に、方陣後方に陣取った砲兵隊の隊長ラトゥールヌリエが命じた。

 伏せた歩兵達の頭上を、砲弾が弧を描いて飛んでいく。

 崩れかけた方陣に集まってきたマムルークの騎兵達は、あっという間になぎ倒された。


 「よくやった、ラトゥールヌリエ! 歩兵の諸君も、見事な連携だ!」


 馬上で身を捻り、ドゼが叫ぶ。ラトゥールヌリエが親指をぐっと突き立てて応じた。彼は、ライン・モーゼル軍からドゼが連れてきた、数少ない将校の一人だ。


 すかさず怪我人たちが、方陣中央へ運び込まれた。崩れかけた小さな方陣は、大きな方陣に吸収された。


 だが敵は、エンババの戦いピラミッドの戦いから学んでいた。あるいは、イギリスから供与があったのか。

 1時間ほどの戦闘の後、突然、それは現れた。丘の上に、それまで隠されていた大砲が。


 大きな方陣も、いつまで保つかわからない。今、敵の大砲が火を噴いたら、大変なことになる。丘の上からの砲撃に晒されたら、ひとたまりもなかろう。

 敵の大砲目掛けて突撃し、発射する前にこれを抑えなければ、軍の助かる道はない。


 ドゼの顔にためらいが浮かんだ。彼は、進軍の司令を出そうとしない。


「将軍、負傷者は見捨てましょう。勝利か死か、事態は緊迫しています!」


 フリアンが叫んだ。ベリアルと同じく彼も、エジプトへ来て初めて、ドゼの下に入った将校だ。(*1)


「しかし、負傷者がいる!」


 この時点ですでに怪我人が出ていた。フランス軍は、今までさんざん、マムルーク兵らの残虐な行為を見ている。動けない負傷兵らを残して軍が移動したら、敵は彼らに襲い掛かり、残虐に切り刻むことは目に見えている。


「軍が生き残ることが先決です!」

 再びフリアンが叫ぶ。


 彼の足元に倒れていた負傷兵が、ハンカチで自分の顔を覆ってうつ伏せになった。死を覚悟したのだ。

 大砲の筒が、ゆっくりと、こちらに向けられる。

 襲い掛かってきたマムルーク騎兵を切り伏せ、ドゼは叫んだ。


「勝つか死ぬかだ!」

「勝ちます!」


 打てば響くように副官のラップが答えた。数人の騎兵の先頭で馬を駆け、彼はあっという間に、敵の砲台めがけて切り込んでいった。(*2)


 ……勇敢なことだ。


 少し離れたところで戦っていたベリアルは舌を巻いた。

 死を恐れず敵が20歩の距離に近づくまで銃撃しようとしない兵士といい、このラップといい。

 ドゼ師団にはどうしてこう、命知らずの勇者が揃っているのだろう。


 彼らが命を捨てるのはボナパルトの為ではない。ドゼの為だ。ドゼという名の祖国の為なのだ。

 地味で身なりの冴えない将軍。この将軍は、時に、部下の将校から叱られることさえある。我が身を顧みず、たった一人で平然と敵の中に突っ込んでいくからだ。


 だが、戦場で彼はなんと大きく見えることか。解けたスカーフが首元ではためき、髪をなびかせ、最前衛で戦う彼は、あたかも黒い巨人のように、戦場の兵士達の目に映った。


「全軍、進め!」


 それはドゼにとって苦渋の決断だった。陣を組んだまま、歩兵たちはゆっくりと動き始めた。


 動けない怪我人が後ろに残された。彼らは戦友たちの手で殺されることを望んだ。兵士らは、自分のコートを掴む血だらけの手をコートの裾を切り落とすことで振り放し、丘へ向かって前進した。


 後ろに遺してきた負傷者たちの為にも、短期決戦が必要だった。彼らがマムルークに切り刻まれる前に、勝敗をつけねばならない。


 丘に到着すると、ドゼは部下を発砲位置につけ、一斉射撃を命じた。


 激しい射撃音は、フランス兵にはなじみのものだった。だが、近代的な兵器に慣れていないマムルークにとっては違う。

 マムルークは大砲を放棄して逃げ出してしまった。


 ドゼ軍の死者はわずか44名、怪我人100名に対して、マムルークは400の死者を出した。

 だが、ドゼ師団には騎兵隊がない。砂漠を逃げる敵を追い掛けることはできなかった。

 セディマンでは勝利したが、ムラド・ベイは逃げ出し、砂漠のどこかでまた、兵力を蓄えている。





 「俺は、ドゼ将軍は氷より10度も冷たいと思ってたんだ」

 砂漠でマムルークの死骸を埋めながら、ぼそりとフリアンがつぶやいた。

「だって、軍の指揮官なんてそんなもんだろ? クレベール将軍もベルナドット将軍も、それはそれは厳格だった。『軍を救え』ってな」


 でもそれは冷酷だからじゃないんだぜ、とフリアンは付け加えた。そうしなければ、軍が壊滅してしまうからだ。


「だからクレベール将軍は、親友のマルソー将軍が銃撃された時も、瀕死の彼をアルテンキルヒェンの農家に置きざりにして、断腸の思いで進軍を続けたんだ」(*3)


 サンブル=エ=ムーズ軍に在籍していたフリアンは、ベルナドット師団としてイタリアへ派兵され、そのままエジプトへやってきた。


「あの人は自分の兵隊を見捨てたりしねえよ。あんたも見たろ。たとえ置き去りにしても、必ず勝って、連れ戻しに来る」


フリアンの肩をベリアルは、ぽんと叩いた。


「彼は、方陣の兵士たちが敵がぎりぎりに迫るまで発砲しないと言って苛立ってただろう? あんまり敵が間近に迫ったら、うっかりするとやられちまうからな。ドゼ将軍にとって、麾下の兵士らが無事帰還することは、戦いに勝利するより大切なんだ」


 だがフリアンは懐疑的だった。


「そんなんで、軍の規律が保てるのか?」

自分を救えSauve qui peutだ」


ベリアルはつぶやいた。ドゼが、あの藁色の髪の少年に囁いた言葉だ。


「は?」


フリアンが首を傾げる。自信を持って、ベリアルは断言した。


「敵に追い詰められたぎりぎりの際で、あの人が救いたいのは、軍じゃない。そこにいる兵士達だ」


 フリアンの目が輝いた。

 食料品・ワックスの製造業者の息子として生まれたフリアンは、セディマン以後、瞬く間にドゼ師団の色に染まっていった。間もなくドゼは彼を暫定的な師団長Général de Divisionに取り立て、これは一年後に正式な階級として承認された。




 セディマンに勝利したドゼ師団は、ファユームの州都メディネット・エル・ファユームMedinet-el-Fayoumを占領、拠点を構えた。

 ドゼ師団は、豊かなオアシス、ファユームをフランス軍の支配下に置くことに成功した。




 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

*1 フリアン

イタリア遠征へは、後半、サンブル=エ=ムーズ軍(ライン方面軍)からの応援組です。彼は、ベルナドット師団にいました。

https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-302.html



*2

この後、ラップは怪我をします。怪我の多い男です。

なお、「勝利か死か」、どうやらこの言葉は、当時軍でよく使われていた言葉のようです。怪我人を残しての進軍をためらうドゼに向かい、フリアンが言ったとする資料もありました。

ドゼとラップのやり取りは、ベリアルの回顧録に依りました。ベリアルはその場にいました。

ここでは、フリアン説とベリアルの回想をアレンジしてみました。


セディマンの戦いは、「勝利か死か Vaincre ou mourir」でも扱っています

https://kakuyomu.jp/works/16816927859923657871




*3

マルソーはダヴーの友人でした

「負けないダヴーの作り方」

https://kakuyomu.jp/works/16816452218559266837





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