第78話 正義のスルタン
「ドゼ将軍に話を戻しましょう。貴方は彼を、親友ではないとおっしゃった」
「俺に友人などいない。俺には、友情というものがわからないのだ」
「けれど、彼は貴方に、まごうことなき本物の友情を捧げていました」
「それはどうであろうか」
「そうは思われないと?」
何気ない問いかけには、細かな震えが感じられたが、皇帝は気づかない。
「遠征軍のエジプト撤退の条約にサインしたのはドゼだ。エジプトは、フランスのものであるべきだった。エジプトさえ手放さなければ、今頃私は、長いカフタンを着て、ロシアの代わりにアジアを征服していたであろう」
「ドゼ将軍は、クレベール将軍の大使でした。彼がエジプトのトルコ返還の条約にサインしたのは、クレベールの命令だったからです。この件については、マレンゴ前夜、ドゼ将軍自身が、貴方にご説明したのでは?」
……「軍がエジプトに残る為には、私が
「ドゼには、彼が何をしようと、どのような境遇に陥ろうと、無条件で味方につく仲間が何人もいた。麾下の兵士らに至っては、指揮官への盲目的な愛情から、彼について地獄へでも行ったろう。ドゼもまた、彼らを庇おうとした。彼が私の命令に応じてイタリアへ来たのは、クレベールに賛成してエジプト撤退を決めたやつらを守る為だ」
「守る? 何から?」
「私からだ。彼は、私がクーデターを起こし、権力を掌握したことを知っていた。第一執政となった私から、彼は仲間を守ろうとしていた。私には、彼らの間にある、捨て身の信頼関係が理解できない。私はドゼが怖かった」
「怖いですって!? 貴方が?」
「ああ。私には怖いものがたくさんある。一番怖いのは、私の強い運が、息子の運を奪ってしまうことだ。今彼は、私から遠く引き離されて……」
赤い夕陽が、暖炉の上に飾られた幼児の絵を照らし出していた。絵は2枚あった。羊に乗った幼な子と、同じ子どもが座り込んでスリッパを履こうとしているものだ。その下には、その子どもの小さな胸像が置いてあり、それは、長椅子に横たわった時によく見える位置に配されていた。
無垢な子どもの向けてくる眼差しを避けるようにして、医師は皇帝に問いかけた。
「貴方は、ドゼ将軍の人気を妬んでいたのですか?」
「妬む? まさか。言ったろう。私は彼を恐れていた。彼を慕うのは、兵士だけではない。ドイツでは、敵であるはずの住民もまた、彼に協力的だったという。蛮族の中にあってさえ、彼はいち早く、地元の民の信用を得ることができた。ダマンフールに、彼は私より2日か3日早く到着したに過ぎない。それなのに、ドゼは、
「だから、殺したと?」
沈黙が沈む太陽に赤く染まった部屋を支配した。息が詰まったような浅い呼吸の音だけが、しんと静まり返った部屋に繰り返される。
やがて皇帝は、ひどく憐れっぽい声で哀願を始めた。
「私は具合が悪のです。眠りたいのに、ベッドに横になっても眠ることができない。お願いです、ドクター。哀れな父親を、どうか放っておいて下さい」
嘲るような声が返って来た。
「父親……。オーストリア皇女との『結婚』は、滑稽な茶番でしたね。そうして生まれた『正当な息子』は、随分と不自然な存在だった」
「君は誰だ!?」
がらりと態度を変え、皇帝は叫んだ。
「君は、ドクターではないな?」
「ほう。医者らしい話題をお望みですか? なら、ご期待にお応えしましょう。ドゼ将軍の死についてです。もっとも私は、公表された所見しか知りませんが」
探るように皇帝を見た。皇帝は目をそらした。
「マレンゴでドゼ将軍を撃った銃弾は、彼の心臓を粉々に打ち砕き、右肩へ貫通しています。かなりの急角度です。つまり銃は、低い位置から撃たれた。……至近距離で」
「……」
返事はなかった。皇帝は息を潜め、じっと様子を窺っている。
「私は、彼の元副官に会いました。彼が亡くなる直前まで一緒にいた人です。……その後彼は王室警備隊を率い、警察大臣にまで昇格しましたね。いうならば貴方の子飼いの犬になった」
皮肉な口調だった。皇帝は応えない。医師は肩を竦めた。
「まあいいでしょう。その後がどうであれ、当時の彼のドゼ将軍への忠誠心を疑う理由はありません。その副官が言いました。上官は、自分と別れてすぐ、殺されたのだと。副官が将軍と別れた時は、オーストリア軍はまだ遠方にいました。そして彼自身が発見した遺体は、軍の後方に残されていました。恐らくドゼ将軍は、敵に襲い掛かるよう、歩兵たちを鼓舞していたのでしょう。彼が倒れた後、軍は前進し、遺骸は後方に取り残された。つまりドゼ将軍は、敵からの本格的な攻撃が始まる前に殺されたのです」
相変わらず皇帝は身じろぎもしない。
「ドゼ将軍を貫いた銃弾は、彼のどこを狙ったものかわからない。公表されていないからです。左側面からか。この場合は、右肩から貫通したことから考えて、彼が腕を上げている時でなければなりません。それとも、前からか。あるいは、後ろから狙ったのか」
わずかに皇帝が身じろぎした。
容赦なく医師は続けた。
「どこを撃たれたかは、しかし、あまり大きな問題ではありません。重要なのは、撃たれた時点ではまだ、本格的な戦闘がはじまっていなかったということ。彼の師団は、敵に囲まれていたわけではない。逆です。
皇帝に出せる結論はひとつしかなかった。掠れた声で彼は呟いた。
「誤って歩兵が撃ったのやもしれぬ。中には銃の扱いに慣れない者もあったろう」
「生き残ったブデ師団の歩兵たちから、情報を集めました。ここから先は、彼らの話を総合した推理です」
医師は、追及の手を緩めなかった。大きく息を吸って続ける。
「ストラデッラの司令部で、貴方は一人の兵士に、ドゼへの恨みを植え付けました。弟のようにかわいがっていた兵士をエジプトで殺された兵士です。その子はドゼ師団にいました。彼はドゼ将軍に見放されて殺されたのだと、貴方はその兵士を唆した……事実と全く違っているにも関わらず。マレンゴの戦いの直前、彼がドゼの下に配属されたのは偶然ではない、貴方の差し金です。さらに計画を万全にするために、貴方はドゼ将軍に自身の副官たちを補佐官として貸し与えた」
「ドセ゚のもう一人の副官が、病気で戦場に出られなかったからだ。だが私が貸し与えた2人は、腹心の部下などではなかった。一人は第三者執政の息子、もう一人はかつてドゼのいたライン・モーゼル軍の出身だった」
医師はせせら笑った。
「新しく就任した第一執政に、いち早く忠心を見せようと逸る若者たちです。その彼らに貴方は、ドゼ将軍を歩兵隊に留めておくことを命じた。貴方が彼への憎しみを植え付けた兵士のいる歩兵部隊に。それは全くの杞憂だったのだけれど」
「そうだな。ドゼはいつだって、一番危険な場所にいるのだから。あの時、ブデ師団第9軽旅団は、間違いなく、致命的な場所に位置していた」
皇帝の声には、賞賛の色が混じっていないこともなかった。彼はすっかり諦めていた。もはや何一つ、隠すつもりはなかった。
その気持ちが伝わったのか。わずかに、相手が頷いたように見えた。
「その上で貴方は、側面攻撃を遅らせ、陽動作戦に出たブデ師団を窮地に陥らせた。ドゼ将軍の副官が彼の元を離れたのは、総攻撃を急いでくれるよう、彼からの伝言を貴方に伝える為でした。しかし貴方は、攻撃を急がなかった。
言葉を切った。静かに付け加える。
「銃でドゼの心臓を撃ち抜いた」
責める調子はなかった。淡々と事実を述べただけのようだった。
そう。
事実を。
事実だけを。
「兵士はどうなったのかね?」
「戦死しました」
深いため息が皇帝の口から洩れた。
「ドゼは背中を撃たれた。英雄にあるまじき最期だ。だから私はその事実を隠蔽した。医師や遺体に防腐処理を施した技師、デスマスクを作成した彫刻家にも緘口令を敷いた」
沈黙が落ちた。
少し考え、皇帝は付け加えた。
「さっきの言葉を訂正しよう。それは友情だ。私からドゼへの」
「友情?」
冷たく、そして苦痛を帯びた声が返って来た。細い声は、過去は変えられないことを知っている悲痛な響きを帯びていた。
臆せず、皇帝は頷いた。
「最後にドゼは、命を賭けた献身を捧げた。そうだ。マレンゴの戦勝はドゼの手柄だ。彼は私を窮地から救った。だから私は彼に報いた。ドゼの功績を大きく扱うよう
「その栄光は、ドゼが戦いを生き延びたなら、決して与えられることはなかったでしょう。彼がマレンゴの勇者となり得たのは、もはや、彼が生きていなかったからです。ヨーロッパ制圧の大きな一歩となったマレンゴの栄光は、当時の第一執政、即ち貴方一人のものであるべきだったから。違いますか?」
「……」
皇帝は答えなかった。
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