10.セント・ヘレナ
第77話 同日同時刻の死
「私の権力は私の栄光にかかっている。そして私の栄光は、私の得た勝利のおかげなのだ。私にとって友情とは、単なる言葉に過ぎない。私は、誰も愛してはいない」
絶海の孤島、岩の上の、壁に染みのある粗末な館の居室で、皇帝はつぶやいた。
「では、ドゼ将軍は? 彼は貴方の親友ではなかったのですか?」
対面に座った医師が尋ねる。
彼は元イギリス海軍の軍医だった。アイルランド人のオマーラ医師は元フランス皇帝と意気投合し、今は彼の侍医を務めている。
「ドゼ? 懐かしい名を聞く」
皇帝の目に光が宿った。誦するがごとく彼は続けた。
「親友……か。彼は高貴な野心、真実の栄光を生き、それを呼吸していた。彼は非常に古めかしい性格だった」
「ドゼ将軍はつねに貴方に献身的で忠実であったと聞きます」
「だが、あの男には、何人にも御し得ない部分があった」
「たとえば?」
「たとえば? そうだな。彼が上エジプトを治めていたことは知っているだろう? 私の目の届かないところで、あの男は、やりたい放題だった。
「それは、貴方がドゼ師団への補給を絶やしたからでは? 食糧や武具がなければ、住民の福祉どころか、軍そのものが維持できません」
「それではこれはどうだ? アブキールの陸戦に備え、私はドゼに、首都ヘ戻るよう命令を出した。それなのに彼は、カイロへ来なかった。命令を違えた上にドゼは、私には彼の話を聞く気がないから、弁解はしないと言ってきた」
「貴方からの命令が上エジプトに届いた時には、戦いは既に終わっていたと聞きました。それでドゼ将軍は上エジプトに留まったのだと」
「そうだ。そのように彼は言った。彼がイタリアへ来た夜……マレンゴで死ぬ数日前に」
ボナパルトは、ストラデッラの司令部に来たドゼと明け方まで話をした。それはドゼにとっては、ボナパルトの疑いを晴らす為の時間だった。彼の意に逆らい、エジプト撤退を決めたエル=アリシュ条約にサインしたことへの釈明のひとときだった。
もっと言うなら、クレベール他の諸将を守る為の時間だった。ドゼには、エジプトに残してきた仲間たちを、無事に帰国させる使命があった。
「クレベールも死んだ。ドゼと同日、同じ時間だったという」
エル=アリシュの和約は、イギリス議会では歓迎されなかった。同盟国であるオーストリアが、フランスの精鋭部隊がヨーロッパに帰って来ることをいやがったからだ。
また、トルコ側もこの和議を快く思っていなかった。イギリス本国の反応を見た
エル=アリシュの和議を受け、フランス軍はカイロを出て、アレキサンドリアとロゼッタに集結していた。約束通り
そこへイギリスの
この知らせにクレベールは激怒、フランス軍は再武装する。ヘリオポリスでクレベール軍は、6千のトルコ騎馬軍を、1800の部隊で破った。
その後、トルコ軍に呼応して蜂起したカイロを奪還、籠城した。
トルコ軍の敗北を受け、
医師が首を傾げた。
「思えばおかしな話ですね。その神学生は、どうしてそうやすやすと、カイロの城に入り込めたのでしょう」
「戦勝に安堵して、油断していたのだろう」
何心ないと言った風にボナパルトは応じた。
「しかし、歩哨がいたはずです。」
「使用人に紛れたのではあるまいか?」
医師はしつこかった。
「カイロには、不満分子がたくさんいるのは、皇帝陛下、あなたもご存じだったでしょう?」
「ああ。我々が入城した年の10月にも蜂起が起きた」
「まして、ヘリオポリスの戦いがあったばかりで、カイロを奪還してすぐの頃です。クレベール将軍も、それなりに警戒していたのでは?」
「フランスが使っていたのは、カイロのパシャの宮殿だ。中の様子など、トルコ側には、手に取るようにわかっていたろう。その情報を
医師の目が光った。
「では、クレベール将軍の暗殺は、トルコ側の陰謀だったと?」
「それしかなかろう」
断固として皇帝は断じた。医師はなおも食い下がった。
「百歩譲って、予め城の内部を知っていたとしても、歩哨の配置などフランス側の守りについては、
そこで息を継いだ。皇帝が緊張しているのが感じられる。さらに医師は続けた。
「たとえば、フランスの歩哨配置の見取り図があったら……」
「クレベールの統治など、俺は知らん」
ぷい、と、皇帝は横を向いてしまった。
小さな笑い声が洩れた。しかし医師の口元に表れた微かな綻びはすぐに見えなくなり、彼は表情を消した。
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