第79話 グラン・サン=ベルナール
「何より私が許せないのは、」
医師だったはずの人の声が高くなった。聞いたことのないその声は、男性のものとも思われない震えを帯びた。
「貴方が彼を、グラン・サン=ベルナール峠の修道院へ埋葬したことです。彼は、自分が死んだら、既に戦死した同郷の兵士二人と共に、ヴェグー(父の領土)に葬ってくれるよう、母や姉に伝えていました。そんなにも彼は、故郷へ帰りたがっていたというのに」
「それは、クレベールも同じだ。エジプトから帰ってきた彼の遺体は、イフ島に留め置いた。私は、能力も人望もある将軍の墓所が、共和主義者たちの聖地になることを恐れた。彼らはいずれ、私への反逆者へと転じたことだろう」
「だから、簡単には行けない、雪と氷に閉ざされたアルプスのてっぺんに墓を? 親族が彼の墓を詣でたがっていることを考えなかったのですか!」
「いずれにしろ、ドゼの母親は、彼がグラン・サン=ベルナールへ埋葬される前に亡くなっただろう?」
「……それまで
激した声は、意志の力で封じ込められていた。代わって皮肉が色濃く表れていた。
「防腐処理をする為だ。私は彼を、しかるべき墓所に埋葬するつもりだった」
英雄の遺骸は、アレッサンドリアからミラノへ運ばれ、そこで防腐処理が施された。
マレンゴの英雄ドゼ将軍の墓所は、どこになるのか。
……「ドゼの墓は、アルプスをその台座とし、サン・ベルナールの修道士を守護者とするだろう」
「まるで記者に急かされるように貴方は言いました。サン=ベルナール峠にドゼの霊廟を造ると」
それはその場での思い付きではなかったのか。そう糾弾するような声色だった。皇帝はそれを、平然と受け流した。
「峻厳な山の頂のことだ。ドゼの霊廟が出来上がるまでには、5年の歳月を必要とした」
5年後、即ち皇帝が即位して半年後。ようやく、サン=ベルナールの頂上にドゼの廟が竣工した。6月14日のマレンゴの戦勝記念日に合わせ、彼の葬儀が行われることとなった。(*実際に葬儀が行われたのは19日)
皮肉な笑みが医師の顔を過った。
「ドゼの棺は、行方不明になっていたんですってね」
丁度その頃、皇帝は、ミラノを訪れた。イタリア王冠戴冠の為だ。しかし彼は、ドゼのことなどすっかり忘れていた。少なくともかつての親友が今どこで眠っているかなど、気にも留めなかった。
その間に、葬儀執行責任者となったドノンが、必死になってドゼの棺を探していた。
ようやく見つけ出した柩は、
「そして貴方は、ドゼの葬儀にすら参列しなかった」
「国際情勢が緊迫していたのだ」
イギリス海峡制覇の命令を受け、太平洋を股にかけた無謀な計画にヴェルヌーヴ提督が乗り出したのは、イタリア王戴冠式の直後だった。ヴェルヌーヴは
新しくイタリア王の冠を被ったフランス皇帝は、ミラノから一路、パリへ帰っていった。彼が
細く風が吹くような吐息が聞こえた。
「グラン・サン=ベルナール……あまりに遠く険しい。女一人では、彼に会いに行くことは、もはや叶わない……」
驚き、皇帝は顔を上げた。
「貴女は……?」
「有夫の身です。けれど夫よりずっと前から、彼は私を愛し、その優しい愛は、生涯変わることがなかった。私は彼を選ばなかったけれども」
「そんな女性が、彼にいたのか?」
「私は彼には、従姉妹に当たります。形の上では」
「形の上では?」
答えはなかった。
「彼が一族の男たちと一緒に王族に従って亡命しなかったのは、私がいたからです。王家の血を引く私が」
「王家の血を引く、だと? ブルボン家の血筋か?」
微かに、女性は頷いた。
自分が彼への友情を認めたばかりのドゼが恐らく終生愛した女性を、皇帝はもっとよく見ようとした。けれども彼女の顔には、薄いぼんやりとした靄が掛かっているようで、はっきりしない。
靄は、皇帝の目に掛かっているのかもしれなかった。
「彼は私がいるから
「……」
皇帝には言葉もなかった。
彼は、エジプト遠征中にジョゼフィーヌが浮気をしていると知った時のことを思い出した。兵士として戦場に出るとは、そういうことなのだ。守っていたはずの妻や恋人は、いつの間にか他の男のものになってしまう……。
けれど、この女性とジョゼフィーヌ、あの
「貴女はなぜ、亡命しなかったのか」
「大切で愚かな男が国に残ったからです。私の結婚……そして妊娠を知ると、彼は言いました。自分が国に残るのは、愛する母と姉を守る為だ、と」
なんと不器用な答えだろう!
結局、ドゼとこの女性は表裏一体なのだと、皇帝は思った。ドゼは彼女の為に国に残り、彼女もまた、ドゼの為に亡命を潔しとしなかった……。
「貴族である彼の母と姉……私には叔母と従姉は、亡命貴族を息子や兄弟に持つがゆえに、革命政府から目をつけられていました。二人は逮捕され、2年近くもの間、監禁生活を強いられました。ドゼがいなかったら、処刑されていたことでしょう。彼が祖国に残ったことは、正しかったのです」
早口で女性は言ってのけた。まるで言い訳をしているようだった。ドゼは自分の為に国に残ったと言っておきながら、必死で、自分の為だけではないと言い繕っている。
「休暇でパリに来た彼に、私は、
女性は、しかし、皇帝の答えを求めていたわけではなかった。どこか遠くにある愛しいものを見つめ、語り続ける。
「これらが表すものは、『友情が二人を結ぶ』です。楕円の盾にはイニシャルが刻まれています。L、M、D。Mは……」(*ドゼ Desaix のファーストネームは、ルイ Louis)
彼女は、ルイとドゼに挟まれたM……自分の名前を口にしなかった。
「この封印を捺した手紙を、彼は、あちこちから送ってきました。ライン河畔、ドイツ、イタリア、海を越えて、エジプトからも。けれど彼にとって国に残るという選択は、恐怖と紙一重でした。彼の兄弟、叔父、従兄弟たち……亡命した彼の親族達と殺し合わねばならない危険を、常にはらんでいたから」
皇帝には思い当たることがあった。
「それでドゼは、俺の懐に逃げ込んだのだな?」
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