第80話 友情
「それでドゼは、俺の懐に逃げ込んだのだな?」
ドゼは追い詰められていたのだと皇帝は思った。戦友や麾下の兵士らを裏切ることは、彼にはできなかったろう。派遣議員の監視も厳しかったはずだ。けれどこのまま戦い続ければ、自分は叔父と、兄弟たちと殺し合うことになってしまうかもしれない。
行き場を失った彼が逃げ込んだのが、ボナパルトとの「友情」だった。
ちょうどその頃、ボナパルトはエジプト遠征を考えていた。
総裁バラスの剣、軍を引き連れた傀儡となることから逃れる為に。
もうこれ以上王党派の恨みを買わない為に。
ヨーロッパとは違う大陸、エジプトへ。
思えばドゼは、最初からエジプト遠征に前のめりだった。
……「貴方が考えておられるその偉大な事業が動き出す時には、どうか私のことを思い出してください!」
そうして、遥かに格上の
エジプトでドゼは、過酷な砂漠の遠征に積極的に出て行った。太陽に焼かれ、疲れ切った体に鞭うつようにしてマムルークを追いかけた。何千マイルも歩き、馬をラクダを走らせた。
……「あなたはクレベール将軍を連れて帰るべきだった。そして、私にエジプトの総指揮を任せるべきだったのです」
遠い日の男の声が耳朶に蘇る。彼は本気で、エジプトに留まりたかったのかもしれない。
「逃げ込んだわけではありません」
ボナパルトの思念は、ぴしりと払いのけられた。怒気を含んでいる。
「彼は逃げたりしない。ただ、王について亡命した兄弟や親戚と戦いたくなかっただけ。けれど、もし政府の命令に背いて王党派軍への攻撃を避ければ、今度は私が……いいえ、彼の母と姉が、処刑される」
「そうか。だからドゼは、
……「同じ民族が敵味方に別れて戦うことは何と無益で、残酷なことか!」
「それで貴方は、クーデターを起こしたわけですね?」
マレンゴで再会した晩の会話を皇帝は思い出す。ドゼは真剣な眼差しをしていた。
……「
するとドゼは、改めて、皇帝への献身を誓った……。
もちろんボナパルトにしても、一時的な言い逃れなどではなった。リュネヴィルでオーストリアと、アミアンでイギリスとの和約が整うと、元老院の名の下に、王党派や亡命貴族への恩赦を発令した。しかし一方で彼は、
また、有色人種の権利を大幅に縮小した。その為、ボナパルトの怒りを買ってエジプトを出たデュマは、年金も奉職中の給与も剥奪され、彼の家族は困窮した。その上、肌の色が濃いデュマがフランス国内に留まる為には、かつての戦友たちの助力を必要とした。
ドゼの死後、様々な矛盾を孕みつつ、ボナパルトの政権は前進していった。
ふ、と女性が笑った。
「
「頼み事?」
「ストラスブールで不倫関係にあった女性が騒ぎ出したら、彼女が産んだ子は自分の子ではないと、母上……私には叔母に当たります……に伝えてくれと」
皇帝は呆れた。
「あのドゼが」
「はい。叔母上は、その女の子が息子の子だと聞かされると、夢中になりました。即座に引き取り養育しようとした彼女に、私は友情の名において真実を伝えました」
「友情……愛ではなく?」
ふと、皇帝は思い出した。
「パリに司令部を置いていた頃、ドゼは伯母の家へ行くと言って、俺の誘いを断ったことがある。俺は彼と
答えはなかった。更に皇帝は言葉を重ねた。
「だって貴女は、彼の従姉妹だといった」
「叔母が一緒でした。……
観念したような声が返ってきた。被せるように彼女は続けた。
「私と彼の間にあったのは愛ではありません。友情です」
「残酷だ」
「貴方ほどではありません」
きっぱりと指弾され、皇帝は絶句した。
自分を親友と恃んだ彼を、砂漠での行軍の最も危険な最前衛部隊に置いたこと。トータルで3000マイル(約4800キロ)もの過酷な旅に出し、求められても補給をしなかったこと。エジプトに置き去りにしたこと。そして何より、マレンゴでの死。
きっかけがどうであれ、ドゼが皇帝に献身を尽くしたことは事実だ。それに対し皇帝は、彼に死を与えた。そしてそれは、彼に永遠の栄光を齎した。そうなるように皇帝は仕向けた。
やはりそれは、どうしても友情だった。皇帝に献身を誓い、決して裏切らなかった男への。
「最後の手紙は、トゥーロンの港からでした。彼はそこで、検疫を受けていました。私は彼に、誰も知らないところでゆっくり休んだらどうかと、提案しました。パリの郊外に、隠れ家を用意していたのです。彼からは、喜んで受け容れると返事がきました。あの馬鹿な男は、はるばるエジプトから、私への土産物を持ち帰ってきました。色鮮やかなカシミヤでした。けれど彼は、イタリアへ呼ばれた。貴方に代わって死ぬ為に。いいえ。皇帝陛下、貴方に殺される為に」
言葉を失ったまま、皇帝は、ぽかんと口を開けた。
「新しい憲法が発令された日、第一執政となった貴方は言いました。革命は終わった、と。けれど、本当に革命が終わったのは、マレンゴでドゼが死んだ日……遠いエジプトでクレベール将軍が刺殺された、同じ日なのです」
ぼんやりと、皇帝は女性を見つめた。彼女が何を言っているのかわからない。
そんな皇帝の手首を、女性はつかんだ。じっとりと汗ばんだ掌に、何かを握らせる。
「さ、陛下。これをお飲みなさい」
「これは?」
「お薬ですよ。今夜はぐっすり眠れます」
「しかし……」
「何をお疑いでしょう。私は貴方の主治医ではありませんか」
はっと、皇帝はその人物を見た。
紛れもなく、ベレルフォン号から船を乗り換え、ついには要請に応じて
「私がいなくなっても、お薬は飲み続けるのですよ。途中で止めると、かえってお体に毒ですからね」
信頼する主治医の言葉に、皇帝は素直に頷いた。
◇
セント=ヘレナ島で、かつてフランス皇帝だったナポレオン・ボナパルトが死んだのは、彼の侍医だったオマーラが島を出た三年後のことだった。ナポレオンの死は、ヒ素による毒殺を疑われている。少量ずつ摂取されるヒ素は、その効果を発揮するまでに長い時間を要する。
fin
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最後までお読み下さり、ありがとうございました。
お読み頂けて幸せこの上なく、心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
史実の解説はこちらに。
「エジプトからマレンゴへ」
始まり
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汝、救えるものを救え「逃げろーーーっ!」 せりもも @serimomo
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