出航

第12b話 2日の遅れ


 トゥーロン出航後の9日間で、全ての船団が合流した。ローマ、チビタベッキア港発のドゼ師団の他は。

 約束の期日になった。しかし青い海には、待てど暮らせど、ドゼ師団の船は見えない。


 海軍総司令官ブリュイがそわそわし始めた。(*1)

「チビタベッキアからの船団を探しに行くべきです」

彼はボナパルトに進言した。

「なぜ?」

青白い顔でボナパルトが答える。


 彼はひどく船に酔っていた。なんとか揺れを躱そうとベッドの脚にキャスターを取り付けさせたが、殆ど効果はなかった。今も気持ちが悪くて仕方がない。


「フランスからイタリアにかけての海域には、イギリス艦隊がうろうろしています。セント・ヴィンセント卿イギリス地中海方面の総司令官も、我々の出航に勘づいた頃でしょう」


 低い声でボナパルトは唸った。ブリュイが来たのでベッドから起き上がったのだが、座っているだけで吐きそうだ。


「ドゼの船を探しに行くとは?」


 吐き気を堪え、ボナパルトは尋ねた。そしてなぜ、この男ブリュイは船酔いをしないのだろうと不思議に思った。


「我々の大船団から、捜索隊を派遣します」

「ダメだ」


 きっぱりと禁じ、途端にぐらりとめまいがした。


「捜索隊がイギリス艦隊と遭遇したら? もちろん、わが軍の艦隊がイギリスなどにたやすくやられるなどとは思わない。だが、洋上の戦いともなれば、わが軍の船が散り散りになる可能性がある」


 それは、ボナパルトの擁する大船団の弱体化に繋がる。目的地に到着する前に船の数を減らすなど、とんでもないことだ。

 しかし、ベテランのブリュイの意見は違った。


「ここからチビタベッキアまでの航路は限られています。捜索隊がドゼ師団と合流できれば、イギリス艦隊は敵ではありません」

「ドゼの艦隊は遅れているだけだ。捜索隊など出して、これ以上多くの船を迷子にすることはできない」


 にべもなく言い放つと、ボナパルトはハンカチを口に当ててえずいた。なおも粘ろうとするブリュイを、片手を上げて追い払った。



 ……ドゼ将軍は、総司令官の「親友」ではなかったのか。ラインの勇者ドゼイタリアの勝者ボナパルトに会いに来て、二人は友情を結んだと聞いたのだが。


 ボナパルトの船室を離れ、ブリュイは首を傾げた。

 海軍の友情は厚い。同じ板の上で生死を共にするからだ。友を置き去りにするなど考えられない。


 ……陸軍の連中は、考え方が違うのだろうか。

 そう思うしかない。



 実はボナパルトは、チビタベッキアへの最終出港命令を出していなかった。

 出港寸前まで波が高く、トゥーロンからの自分の船団の出航日さえ定まらなかった。ドゼどころではなかった。


 その上ボナパルトは、ジョゼフィーヌのことで頭がいっぱいだった。彼女を置いていく決意をしたのは、新聞社へのドゼのコメントのせいだ。



 海が荒れているのは、ドゼ側にもわかっていた。激しい東風に、北風までが加わっていた。トゥーロンの出航予定日を過ぎても、チビタベッキアには何も連絡がない。これは明らかに、天候のせいだろう。マルセイユなど、他の船団はどうしているのか。トゥーロンからボナパルトは出航したのか。


 風は、次第に治まりつつあったが、依然として何の連絡もない。


 ボナパルトの大船団との合流2日前。夕刻まで待って、ついにドゼは決断した。

 5月26日午後六時。チビタベッキア港から、勇気号ル・クレジュス率いる80隻の船が出航した。

 総司令官ボナパルトの出港命令ではなく、チビタベッキア指揮官ドゼの判断での出航だ。トゥーロンからボナパルトの船団が出航した1週間後だった。


 遡ること1ヶ月前(4月下旬)、ドゼはボナパルトから、最終的にマルタ島沖で落ち合おうという指令を受け取っていた。これを頼みの出航だった。

 約束の期日までに指定の場所で合流できなかったドゼ師団は、直接マルタ島へ向けて舵を切った。


 いずれにしろ、このドゼの「遅刻」のせいで、フランス艦隊は、2日の遅れを出してしまった。


 途中、洋上の遥か彼方に、ドゼ師団の艦隊が確認された。しかし、大船団に追いつくことはできず、いつの間にか消えてしまった。


 そして、大艦隊がマルタ島沖に到着した時、ドゼ師団はすでに、マルタ島沖合にいた。報告では2日前に到着したという。


 ドゼ師団のマルタ島沖到着は予定通りで、遅刻したのは、ボナパルトの方だった。



 マルタ島沖に到着すると、ボナパルトはすぐに、学者のモンジュを自分の船に呼んだ。

 モンジュはボナパルトにとって、父と同じ年回りだ。彼の父性に、ボナパルトは憧れを抱いていた。それで、年齢を理由に嫌がる学者を、半ば強引に遠征に引き込んだ。


 「ドゼ師団は、戦う意欲に満ち溢れています」

 ロリアン号に移ってきたモンジュは、目を輝かせていた。

「ドゼ将軍はじめ麾下の兵士たちは、エジプト遠征を企てた貴方に、深い敬意を抱いています」


「おや、ドゼ師団の兵士らは、行く先がエジプトだと知っているのですか?」

 未だにボナパルトは、麾下の兵士らに目的地がエジプトだと告げていない。


「船が出てしまったら、外部との連絡は取れませんからな。そう、ドゼ将軍は言っていました。確かに、英国のスパイが接触することは不可能です。いずれにしろ、目的地がエジプトだという事実は、兵士たちの気分を前向きにしています」


 呆れたことに、エジプト遠征をあんなに嫌がっていたモンジュは、すっかり前向きになっていた。なんでも、出港してすぐ、ドゼは兵士たちに行先を告げたのだそうだ。それ以降、彼らは陽気に騒ぎ、革命歌を歌い、船は和気藹々とした雰囲気に包まれているという。


「だが貴方は、遠征に来たくなかったのでは?」

 皮肉な口調でボナパルトは尋ねた。

「奥方がひどく反対されていたとか」

「妻も最終的には賛成してくれました。ボナパルト将軍のお役に立てるのなら、と、目に涙を溜めて!」


 嘘だな、とボナパルトは思った。貴族出身のモンジュの妻は、夫の年齢を心配し、エジプト行きを自殺行為だと罵っていた。


「私自身、エジプトの文化風土に深い憧れを抱いています」

「何が貴方を翻意させたのでしょうね?」

「総司令官殿の偉大なる勝利のお陰で、私は、イタリア、ローマの遺跡を度々訪れる機会を得ることができました。勇壮なコロッセオ、麗しのトレヴィ、そして荘厳なパンテオン神殿。それら文化の先駆けともいえるエジプトを、どうしても訪れてみたくなったのです」

「ほう。パンテオンにも行かれましたか」

「ええ、ドゼ将軍と」


 モンジュは答え、ボナパルトは思い出した。ドゼには観光客を装えと命じた。パンテオンにも行ってみるがいいと唆しさえした。


 楽し気にモンジュはまくしたてる。

「全くあのドゼ将軍の歴史文化への敬意と憧れは、特筆すべきものですな! 彼の感動が、年を取り、固くなりかけた私の心に火を着けたのです」


 モンジュを心からエジプト遠征に向かわせたのは、どうやらドゼらしかった。彼のローマの遺跡に対する素直な感動が、モンジュの心に、エジプトへの憧憬を引き起こしたということらしい。


 なんにしても腹の立つことだ。勇気号la Courageuseには、ドゼを監視させるつもりで、モンジュを乗船させた。それがすっかり、ドゼに篭絡されているとは!


「彼は、私のことを何か言っていましたか?」

 そろり。

 ボナパルトは探りを入れる。


「何か?」

 モンジュはきょとんとしている。


「私のやり方は、ライン軍とは違いますからな」

「ああ、なるほど? ですが、ボナパルト将軍。ドゼ将軍は貴方に心酔しておられますよ。手紙を書く時も、貴方の文学的素養に対し、自分の物言いはあまりに直截的ではないかと、常に点検怠りなくしておられます」

「ほほう」

「エジプト遠征に真っ先に賛成したのはドゼ将軍だったのでは? 彼は貴方の遠征に、古代のロマンを感じ、胸をときめかせています。この先何が起ころうと、彼は貴方の味方でしょう」


 ……悟られた?


 自分のドゼへの敵意……とはいえないほど微弱なもの、小さな反感、決して認めるわけにはいかない嫉妬……、それを、この学者は感じ取ってしまったのだろうか。そして、彼をラ・クラジュースドゼの船に乗せた本当の意図も……。


 ボナパルトはこっそり、年配の学者を窺った。

 モンジュは平然としている。


 「ドゼの船は乗り心地が良かったようですが、マルタからは、このロリアンで旅を続けて頂きますぞ」

「光栄です、ボナパルト将軍」


 学者の多くはロリアン号に乗船しており、夕方になると、学術的なサロンが開かれている。

 モンジュとは古いつき合いだ。ドゼなどに渡すまいと、ボナパルトは思った。








________________


*1 ブリュイ

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