第12a話 オルヴォワール!


 ドゼの指令室へ学者のモンジュが入って来た。


「ローマ教皇からアラビア語の印刷機も借り出すことができたし、準備は万端……おや、お手紙ですかな?」


「ええ、ボナパルト将軍に宛てて」

ドゼは顔を赤らめた。

「ええと、モンジュ博士。ちょっとご覧いただけますか?」


「私が見てもいいんですか?」

「もちろんですとも」


 ドゼは、若い将校らと話したりふざけたりするのが大好きだ。その屈託のない性格を、モンジュは好ましく思っていた。


 初めはボナパルト将軍の下から外されたと怒っていた若い将校らも、今ではドゼの冗談に笑ったりしている。それは、いったん軍務となると途端に真剣に、冷酷にさえなる彼の職務への熱意を、彼らが評価したからだ。


 そんなドゼだが、時折妙に内省的になって、閉じこもってしまうことがある。

 どうやら女性に手紙を書いているようだ。それも何通も。何度か宛名が見えた。いずれも同じ名前だった。


 もちろん、ドゼの父親の年代のモンジュとしては、そんなことで司令官をからかったりしない。妻の反対を押し切ってエジプトへ向かう身としては(いったい誰がボナパルトの命令に逆らえるだろう!)、温かくドゼの恋を見守ってやるしかない。

 つまり、知らぬふりをしている。


 書きかけの手紙を、ドゼが手渡してきた。今回は女性宛の手紙じゃないのだな、と思い、モンジュは受け取った。

 ざっと目を走らせる。勇敢な将軍の字とは思えぬ、丸っこい、かわいらしい字だ。


「私たちの船は、ここでアルゴーに変身したのでしょうか? これは、新しいイアーソーンの奇跡の一つです。海水という素材には、価値がありません。海を征服することは無意味でしょう。けれど我々は、長い間光が届かなかった国に、理性の炎をもたらし、哲学の領域を広げ、国家の栄光をさらに高めるでしょう」


「これはこれは」

モンジュは目をしばたたかせた。


 アルゴーとイアーソーンの神話は、モンジュ自身が、エジプト遠征参加の意志をボナパルトに伝えた時に引いたものだ。


「貴方への敬意をこめて。オマージュってやつです」

くすぐったそうにドゼが笑う。

「光栄ですな、ドゼ将軍。光栄です」

 誠意を込めてモンジュが言う。再びドゼが顔を赤らめた。

「こちらこそ、ローマでは思いがけず有意義な時間を過ごすことができました。そのう、貴方と一緒に遺跡を巡って」


 その遺跡なのだ、と、モンジュは思う。


 イギリスのスパイの目をごまかす為に、ドゼはボナパルトから、美術愛好家のふりをするよう、命じられていた。何度かモンジュも、彼に同行してローマの遺跡を見て回った。ドゼの遺跡への憧れは強かった。その思いは、素直で、まっすぐだった。忌憚なくいろんな質問をモンジュにぶつけ、素朴な感想をつぶやく。彼は、エジプトの遺跡を訪れることを楽しみにしていた。


 ドゼと共に時間を過ごすうちに、次第にモンジュにも、エジプトの遺跡への憧れが燃え移っていった。


 ボナパルトに命じられて参加するエジプト遠征だが、ドゼのお陰で、今ではモンジュ自身、とても楽しみな旅立ちとなっていた。


 「ところで、ボナパルト将軍から出向命令は届きましたかな?」

モンジュが尋ねると、にわかにドゼは眉を曇らせた。

「それがまだなのです。一昨日も手紙を書いたのですが、返事が来ません」


 イタリアの海軍にはイギリス艦がうろうろしている。まさかボナパルトの船団は、イギリス海軍に捕まってしまったのだろうか……。モンジュの中に一抹の不安が過る。


 彼の心中を知ってか知らずか、明るい声でドゼが言う。


「少し前まで北風がとても強かったから、トゥーロンの出航も遅れているのかもしれませんね」

「まことに、海を征服することはできませんからね! たとえできたとしても、海水に価値などないから、征服は無意味だ」


 ドゼの手紙の一説を引き、モンジュは笑った。物静かな将軍は、このような穏やかな表現で、ボナパルトの出向命令を促したのだ。


 自分の書いた手紙の意図を理解してもらい、ドゼは嬉しそうだった。


「ボナパルト将軍は、文学に造詣が深いと思ったものですから。一昨日の私の手紙は、ちと、直截的過ぎました」


 モンジュは首を傾げた。そうだ。ボナパルトから返事が来ないのだ。

 出航の日時は迫っているはずだというのに。


「しかし、決められた日に集合場所に行き着くには、そろそろ出航しなくてはまずいでしょう?」


 チビタベッキア船団が、トゥーロンはじめ他の港から出港してくる船団と合流する日時は2日後に迫っていた。当初の出航予定日を過ぎている。少なくとも、トゥーロンからはとっくに出航しているはずだ。

 だが、それを知る手立てがない。加えて、チビタベッキアには、未だに出向命令が届かない。


「その件ですが、モンジュ博士。明日一日、今書いた手紙の返事を待とうと思います。そしてもし、明日中に返事が来なければ……」

ドゼはじっとモンジュを見つめた。

「チビタベッキアからは、私の指揮で出航します」




 翌日夕方。

 麾下の将校・兵士らの前で、ドゼは演説した。


「議論する時ではなく、従うべき時が来た。名誉と義務は、貴方がたに、それぞれの持ち場に就くよう命じている。遠征隊の敬礼を損なうことは、誰一人として考えないだろう」


 旗艦勇気号ラ・クラジュスはじめ、チビタ・ベッキア船団への乗船が始まった。




 「さようならオルヴォワール! オルヴォワール、ジャン!」

 去り行く船のデッキから身を乗り出し、アンリが叫んでいる。


「オールヴォ、ワール!」

ジャンも叫び、力いっぱい手を振った。


 汽笛が長く尾を引いた。軍楽隊の奏でる音楽が、次第に間遠になっていく。


 「オルヴォワールと言えるのは、ドゼ将軍の船団だからだな」

隣で見送っていた兵士が、ぼそりと言った。

「もしあれが、マッセナやオージュローの船団だったら、俺は断然、アデュー、って言うね」


 アデューは、長い別れを告げる時の言葉だ。永遠の別れである場合もある。一方、オルヴォワールは、それよりもっと短く、軽い別れに用いられる。


「ドゼ将軍の下なら、オルヴォワールでいいのか?」


 振り返ってジャンは尋ねた。男は頷いた。


「ライン軍ではそう言われていたよ。ドゼ将軍の指揮で戦場へ出るときは、陣に残していく戦友にオルヴォワールって言える、って。彼はいつだって、麾下の兵士を気にかけてくれているから」

「そうか……」


 夕陽を帆に受け、ラ・クラジュスという名のフリゲート艦は、80隻の船団を引き

連れ、チビタ・ベッキアの港を離れて行った。




 遠征軍が向かった先はエジプトだとジャンが知ったのは、それから数ヶ月後のことだった。

 エジプトがどんなところか、ジャンは知らない。だが、アンリなら大丈夫だろう。彼は若い。なにより、ドゼ師団にいる。あいつは、オルヴォワールと言って、祖国を離れて行った……。









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