第12話 古代ローマの神殿で



 古代ローマの神殿でドゼを見かけたのは偶然だった。気まぐれで、ジャンは神殿を訪れた。


 広いドームの真ん中に、彼は佇んでいた。あいかわらず、浮浪者と見間違えそうなほどみすぼらしいなりをしている。


 それでも、髪を束ねていた藁が、今は水色のリボンに代わっているのに、ジャンは気がついた。繊細な織りのそれは、将軍とアンバランスに過ぎるようでいて、彼の濃い赤毛の髪に、意外と似合っていた。このリボンを選んだのは、ドゼのことをよく知っている人だろう。


 それにしても、従者を一人も連れていないのは、奇異に思われた。ドゼほどの高位の将軍なら、ずらずらと1ダースほどは連れ歩くものだ。


 「古代ローマには、神がたくさんいたのだな。フランスにもこれくらいいればよかった。一人くらいは革命と気の合う神もいただろう」

 気配を感じたのだろうか。ジャンに背を向けたまま、ドゼは言った。


 この将軍は、革命が神を否定したことを憂えているのか? 革命軍の将軍なのに? ジャンは首を傾げ、皮肉な口調で返さずにはいられなかった。


「戦場で死が迫ったら、俺は戦友に、百科全書を読んでもらおうと思ってますよ」


 ジャンの両親も祖父母も、その死の間際には、司祭が聖書を読み聞かせた。けれど自分にはそのような贅沢は許されないのだ。


 既にイタリアで、何人も敵兵を殺している。乞われて、瀕死の戦友の頭を打ちぬいたこともあった。

 先に逝った親族が向かった死後の世界へ、恐らく自分は行くことができない。それは、なんという不安だろう。


 ドゼが振り返った。濃い色の瞳が、少しぼやけて見える。無言でジャンを促し、神殿の外へ出た。


 少し歩くと、鳥を売る男がいた。ドゼは、籠に入った一羽を購入した。そのまま坂を下り、港へ向かう。ジャンも後に続いた。


 チビタベッキアの港には、船がたくさん停泊していた。大勢の人足たちが、荷物を運び込んでいる。小さな港は、祭りのような活気に満ち溢れていた。

 ドゼが立ち止まった。近くに積み上げられた材木の上に鳥籠を置き、屈んで中を覗き込む。


「檻に入る前、鳥は空を飛んで、祖国と状況を変えようとした。いつも同じことをした。今、この鳥は捕虜となり……」


 言いながら、籠の蓋を開けた。色彩美しい南国の鳥は怯え、籠の奥に縮こまっている。

 ドゼは小さくため息をついた。


「それなのに、逃げようともしない」


 ドゼのことは、アンリからさんざん聞かされてきた。

 勇敢で高潔な将校だと、彼は口を極めて讃えていた。たった一人で山の中を、しかも敵陣のすぐそばを通って味方の陣営まで辿り着き、軍を勝利に導いた、とか。味方の要塞が陥落した後も、最後までゲリラ戦を繰り広げ、敵を攻撃し続けたとか。味方が撤退を始めた後も敵の最後尾を襲い、最後の一撃を加えてから橋を渡った、とか。


 正直、うんざりするほどだった。


 しかし、今目の前にいる彼には、そのような勇者の面影はまるでなかった。本当のドゼは、こんな男だったのか? メランコリックで、憂愁に鎖されていて……。


 鳥籠の反対側に回り、ジャンは木の枠を叩いた。驚いた鳥は、あっという間に籠から飛び出し、大空高く舞い上がった。


「ほら。出ようと思えばいつだって出られる」

「君は、」


 夢から覚めた人のような顔で、ドゼはジャンを見た。

 血色の悪い顔を、ジャンは睨み据えた。


「アンリを頼みます。あいつは俺の弟のようなものだ」

「彼なら、ミルー将軍の下に入れた」


 即座にドゼは答えた。彼が、一介の兵士に過ぎないアンリの配属先まで把握していることに、ジャンは微かな安堵を覚えた。


「ミルー将軍は、革命歌を広げた将軍だ」


 革命の理想を信奉するアンリにふさわしい上官かもしれないと、ジャンは思った。

 ドゼがふと、目をそらした。


 「軍は俺の家族で、兵士達は子どものようなものだ。俺はあいつらを愛している。だが……」


 ドゼの言いたいことはよくわかった。それが戦争である以上、兵士の無事を保証できる指揮官などいるはずがない。


「アンリはあんたを崇めている。まるで、神のように」


 ずばり、神を口にした。

 ドゼがたじろいだ。さらにジャンは畳みかけた。


「指揮官には、麾下の兵士を死なせない責任がある」


 自分がむごいことを言っていると、ジャンにはわかっていた。それでも言わずにはいられなかった。誰にだって、大切な人がいる。その無事と安寧を願わぬものはいない。


「イタリアでボナパルト将軍の兵士は、彼に覆いかぶさってその身を護った。けれど、アンリにはそんなことはしてほしくない」


 ドゼを守って死んでほしくない。


「危険が近づいたら、俺は逃げる。部下を連れて。約束できるのはそこまでだ。それも、うまくいくかどうかわからん」


 頬を撃たれ、太腿を狙撃され、それでも戦い続ける男の言うことだ。撤退の際、ドゼは、常に軍の後衛を守り、兵士らの退避を援護したという。


「充分です、ドゼ将軍」

 ジャンはドゼを信じようと思った。




 アンリが尋ねてきたのは、出航の3日前のことだった。彼は、ドゼからジャンに会いにいくようにと、命じられたのだそうだ。


 年長者としてジャンは、諍いのことは忘れたふりをした。気まずそうだったアンリも、次第に口がほぐれてきた。


「ボナパルト将軍は、今回の遠征に従軍した兵士全員に、それぞれ二200から300アールの土地をくれると言った。僕は、そこを耕して畑にする」


 ジャンが押しやったとっておきのワインの入ったグラスを、さも興味深そうにのぞき込む。


「戦いが済んで土地を貰ったら、牛や山羊やアヒルを飼って、時々は狩りにもいく。僕の狩りの腕はちょっとしたもんなんだ。そしたら、ジャン。遊びに来てくれる? ちょっと遠いかもしれないけど」


 言葉尻を捕らえるようにジャンは答えた。すぐに返事をしなければ、アンリが示した和解が消えてしまうような気がしたのだ。


「行くとも。お前の嫁さんと、子どもがいたら子どもの顔も見にいってやる」

「嫁は難しいかも」

「大丈夫だ。フランス兵は、現地の娘に兵は引っ張りだこだぜ、きっと」


 戦争に勝って、土地と女を手に入れる。それこそ略奪の本質だ。それはイタリアで、ボナパルト軍の高級将校達がやってきたことだ。そして、兵卒達には敵わない夢だった。


 ドゼは略奪を許さないという。ならきっと、アンリは正当な手段でそれらを手にいれるだろう。







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