第11話 ローマ軍
◇
軍の再編では、アンリとジャンは揃ってローマ軍に配属になった。元イタリア軍兵士と、途中から援軍にやって来たライン方面軍兵士らの混成部隊だ。
とはいえ、両者の争いが消えたわけではない。顔を合わせれば、喧嘩が始まる。
時折は、ジャンも乱闘に参加した。イタリアで共に戦ってきた仲間がいる以上、知らん顔を通すことはできなかったのだ。アンリの方は、積極的に喧嘩に参加していた。争いの最中、アンリと出くわさないよう、細心の注意を払う必要があった。
諍いは長く続き、その混乱は、もはや軍の内乱だった。
この状態を鎮めたのは、ドイツ軍(旧ライン・モーゼル軍)から来たサン=シル将軍(*1)だった。色白で大柄なこの将軍は、臆せずに乱闘の只中に飛び込んだ。すると大抵の喧嘩は治まったものだ。
サン=シルは、ドゼの戦友だ。彼もドゼと同じように、元ライン河方面の兵士らに信頼されていた。元イタリア軍兵士らは、重量砲のようなその迫力に気圧された。
そのままサン=シルは、ローマ軍の司令官に収まった。
ボナパルト将軍率いる対英軍の出航が近づいていた。うち一つの船団が、ここローマのチビタ・ベッキア港から出港するという。
人の出入りが頻繁になった。小さな港に次々と船が入港してくる。
濃い赤毛を藁で束ねた、頬に傷のある将軍がやってきた。
ローマチビタベッキア発の遠征軍の司令官は、あのドゼ将軍だった。
ある日、通りかかったカフェで、ジャンはサン=シルとドゼが向き合って座っているのを見つけた。
しゃべっているのは、主にドゼだった。相変わらず楽しそうにぺらぺらとしゃべりまくっている。一方サン=シルの方は、仏頂面を崩さず、まるで銅像のように押し黙っていた。
正反対の二人だった。この二人は親友同士だというが、随分変わった友情だと、ジャンは思った。あるいは、両極端は惹かれ合うということなのかもしれない。
旧イタリア軍の兵士らの大半は、ボナパルトの遠征に従軍することになっていた。司令官が大使としてウィーンへ行ってしまったベルナドット師団も。
遠征の行く先は告げられていない。そして、ローマから出港する船団の司令官は、ドゼだ。
ジャンは、軍医に頼んで、偽の診断書を作成してもらい、従軍を免れた。肺に病がある、という定番の診断書だ。おかげで、家具屋に強奪に入り、軍医が欲しがっていたソファーを盗んでくる必要があった。
行く先がわからない遠征なんて、まっぴらごめんだ。ドイツやイタリアで、フランス軍は、わけのわからない風土病に苦しめられてきた。遠くの土地は危険だ。
しかも、船で行くのだ。船は沈没するかもしれない。そうなったら、ジャンは、ドゼと一緒に死ななければならない。
身なりのみすぼらしい、藁で髪を縛ったあの将軍と。
友人と話し込んでいたドゼが、楽しそうに笑った。その向こうで、サン=シルが、苦虫をかみつぶしたような顔で腕を組んでいる。
ストラスブールで借りた金がどうとか聞こえた。ドゼが言っている。どうせろくな話ではなかろうと、ジャンは思った。(*2)
サン=シルは、ローマに残るジャンの上官になる。遠征に行くとしたら、ドゼが上官になるはずだった。
とんでもない二人連れに出くわしてしまったものだ。足音を忍ばせ、ジャンは、入ったばかりのカフェからそっと抜け出していった。
「遠征に行くことにしたから」
ジャンを訪ねてきたアンリが、いきなり宣言した。
「遠征?」
ジャンはオウム返す。
デルマ師団はイタリアに残るが、アンリはローマ軍に移籍されていた。自分は遠征に行かないと、ジャンはアンリに話してある。だからお前も、変な正義感や仲間意識を起こすなよ……。
芋虫かゴキブリか、下劣な虫でも見るような目で、アンリはジャンを見たものだ。
「うん、遠征だ。ジャンは行かないって言ってたけど、俺は違う。ドゼ将軍の軍に入る。あの人と共に、イギリスと戦うんだ! ああ、夢のようだよ。もう一度、ドゼ将軍と共に戦えるなんて」
落ち着け、ジャンは自分に言い聞かせた。まだ、アンリはジャンの手の内にある。今まで彼に食わせてきたパンやぶどうが、彼を自分の元に繋ぎ留めてくれることを、ジャンは願った。
「なにを言い出すんだ。俺達はオーストリアをイタリアから叩き出した。せっかく勝ち取った平和の意味を、よく考えろ」
「違うよ、ジャン。戦いだけじゃない。冒険だ。ドゼ将軍が向かうのは、誰も見たこともない、素晴らしい冒険の旅なんだよ」
アンリの緑色の目は、きらきらと輝いていた。何を言っても無駄になりそうな気がする。それでもジャンは言わずにはいられなかった。
「戦地の住人を犠牲にしてか?」
瞳の緑色が濃くなるのを見つめながら、さらに言い募る。
「いいかアンリ、きれいごとを言うなよ。政府からは、ここイタリアへだって補給が乏しい。まして、間に海を挟んだら、政府からの補給は、確実に途絶える。そうなったら、物資を手に入れる為には、地元住民を襲うしかないじゃないか」
最初からボナパルト将軍の麾下にいたジャン自身は、略奪をそれほど悪いことだと思っていない。むしろ必要だと信じている。けれど、ライン河畔から来たアンリは違う。上に立つ将校らの影響からか、一般の兵士に至るまで、略奪を毛嫌いしていた。
そこを、ジャンは突いた。しかしアンリは怯まなかった。
「今度の航海には、学者や技師など、一般市民も同行する。遠征が長引けば、彼らが必要な物資を創り出すんだ!」
まるで詐欺師に騙されているようだと、ジャンは思った。創り出す? 原材料はどうするのだ?
「いずれにしろ……」
地元からもろもろ頂戴するんじゃないかと言おうとしたジャンを、アンリが遮った。
「彼らはイギリスに搾取されている! 俺達は住民の権利を守るために、海を渡るんだ!」
「いったいどこへ行っちまうってんだよ」
俄かに心細くなり、ジャンは尋ねた。だって、遠征軍の行先は知らされていない。でも、船で行くのだ。ドイツやスペインなどの陸続きの国であるわけがない。
アンリが遠くへ行ってしまう? 弟のように可愛がってきた、藁色の髪の青年が。
「わからない」
アンリの返事ははかばかしくなかった。
「わからない?」
「誰も知らないんだ。行く先を知っているのは、ドゼ将軍と学者のモンジュだけなんだって」
あまりのことにジャンは絶句した。そして、行き先も知らされない遠征に飛び込もうとするアンリの世間知らずに、背筋が凍り付くような気がした。
「よく聞け、アンリ。船団が赴く先は戦地だ。戦争なんて殺し合いだ。特に俺ら歩兵は、しまいには敵と取っ組み合って、血だらけになって切りつけ合い、剣が刃こぼれすれば殴り合う羽目になる。どちらかが死ぬまでな。こんなの、人殺しとどう違う? お前はドゼに誑かされている。ドゼはお前を、殺し合いに連れて行くだけだ」
「ドゼ将軍の悪口を言うな!」
しまったと、ジャンは思った。元ライン河方面軍兵士と将校の結びつきは、特別なものがある。特にドゼやサン=シルのような師団長は、麾下の兵士の心を完全に掌握している。そのことはいやというほど知っていた筈なのに……。
「僕はジャンを誘いに来たんだ。一緒に船に乗ろうって。そりゃ、あんたは行きたくないかもしれないけど……。でも、ジャンにもドゼ将軍の凄さを知って欲しかったんだ。ドゼ将軍と一緒なら、きっと、遠征も素晴らしいものに変わる。彼は俺らを成長させてくれるに違いないんだ!」
「アンリ、お前、何言ってるんだ? 殺し合いに行って成長する? いったいどんな成長だ? 殺人鬼として昇格するとでもいうのか」
言い過ぎたと思ったが、一瞬、遅かった。アンリが目を瞋らせた。
「そんな風に言うなんて。見損なったよ」
「待て、待てよ、アンリ……」
いったい自分はどこで説得を間違ったのか。怒りに任せ、大股で歩き去っていく背中を見ながら、ジャンは考えた。
行き先もわからない所にアンリが行ってしまうのは、ジャンには耐えがたい苦痛だった。
ジャンには弟がいた。年の離れた弟は、志願兵となった兄について一緒に故郷を出た。そしてアルコレで戦死した。沼地へ投げ出されたボナパルトに敵を近づけまいとして奮戦している最中のことだった。その時従軍していた軍医が、ラレーだったのだ。弟の最期は、ラレーから聞いた。医者に最期を診てもらえたのか、せめてもの救いだった。
その場にジャンはいなかった。彼の所属していたオージュロー師団は、その先を行軍していた。彼が弟の死を知ったのは、戦いが終わってからだ。
総司令官を庇って死んだのに、弟には何の顕彰も、ボナパルトからの追悼の言葉さえなかった。総司令官の身近に居合わせ、身を投げ出してわかりやすく彼の体を庇った幕僚2名だけが(うち1名は戦死した)、褒め称えられた。
ボナパルトなど放っておけばよかったのだ、と、今でもジャンは痛切に冀っている。弟は、逃げるべきだった。
アルコレは、小さな橋だ。そこに三色旗を立てるの立てないの、大局から見れば大したことではない。弟の死は、無駄死にだった。
ジャンの決して癒えることのない傷が、ずきずきと痛んだ。アンリには、そんな死に方をしてほしくない。
それ以降、アンリからは何も言ってこなかった。それどころか近づこうともしない。遠くからジャンの姿を認めると、すうーっと離れて行ってしまう。
________________
*1 サン=シル
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
軍の再編で、ドイツ軍右翼司令官に任命されたドゼがボナパルトの対英軍へ入る為、この名誉ある地位を譲ったのが、友人のサン=シルです。しかしサン=シルもまた、ローマ軍司令官に異動が決まり、すぐにライン河畔を離れます。
*2 ストラスブールで借りた金
ボナパルトの対英軍に入る為、パリへ行くことになったドゼには旅費がなく、友人のサン=シルに借りています。ドゼは、ボナパルトに会いにイタリアに行った為、素寒貧になったのだと言い訳したそうです
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